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 序章 -It is …Degeneration… God in the dark.-

  ――神は闇に堕ちた.

 

 

 その晩は彼女にとってはある意味で特別だったのだ。

 人にあらざるもの、地に堕ちた神の末裔。そんなゴミクズほどの価値もない生き物が唯一存在を許された時間。

 生きたままの肉を鋭利な歯牙でかっさばいた時に出るような、どこまでも濃く深く鮮やかな血の色が、空を支配していた。

 吐き気を感じるほどに血に染まった、緋き満月。

 気味の悪いくらいにひっそりと静まり返った音のない小高き丘は、天と繋がれなくなった『彼ら』が主役のステージ。

 普段ならば美しい花や、可愛らしい小動物に溢れていたはずの丘は、その『緋き満月』という普段とは少し違う非日常のせいで、まったく違う姿を見せていた。

 針が落ちる音でさえどこまでも聞こえるような、そんな特殊な無音空間。風の音までもが聞こえないと言うのは、常識で考えれば全く持ってありえないことなのだが、その空間ではそれが当たり前のようにも思えるのだ。

 そう、唯一聞こえるのは自身の鼓動。身体の中を駆け巡る知性なき野生の欠片とも言える血液の疼き。血に飢えた狼の本能。

 真紅の暗闇に落ちる、そんな焦燥感。

 

 そう、不意に。

 どんな者をも恐怖のどん底に突き落とすかのような、低く闇に映える咆哮が響いた。

 真っ赤な満月を背負い、特殊な空間でこそ生きていられる彼女は白い衣を纏った堕落そのもの。

 歯牙を生肉の血で染め、快楽と煩悩に狂った瞳をし、全てを飲み込まんと大口を開けて吼える。どこまでも遠くまで響くその咆哮は、明確な意思を持って放たれる。

 乱れを、歪みを、解れを。

 ただそれだけのみ。力なきものが力を持つものを羨み恨むかのごとく。

 不幸な末路を辿る自身に苛立ち、自身と同じはずだった者たちにも堕落を歩ませようとする明らかな悪意。

 白き雌狼は、堕落の神として、地に堕ちた悪として、空に戻れぬ穢れた身として。

 いつだったか、託した思いも忘れ、過去を捨ててしまった。雌狼は自身を呪っていつまでも吼え続けた。

 

 吼え続ける。雌狼は瞳に灰色の涙を湛えて。

 

 

 飼い犬たちの四重奏 -Degeneration that performs quartet-

 

 

 

 

 第一章 -The dog's girl swears the loyalty to me.-

  ――その犬耳少女は僕のことをご主人様と呼んだ.

 

 

 

 世間一般に言う朝食の風景というものは、多少慌しくはあれ朝一番の交流の場とあって、なかなかに和気藹々としているものだ。

 しかしどこの世界にも例外というものはある。ここにも一つ、不機嫌な顔をする少年とそれに意に介さず読書に耽る女性がいた。

 少年は新聞を読む手を止めることなく、こんがりと焼けていい匂いのするトーストを頬張っている。向かい側に腰を落ち着けているのは若い女で、なにやら奇怪な背表紙に飾られた文庫本を片手に、ケラケラと笑い声を上げている。

 食卓にいるのはこの若い二人で、それ以外に人の姿はない。

 少年の方は制服に身を包み、淡色のネクタイを首から下げている。少年は「はぁ」、と小さな息をつきながら鋭い目つきで射抜くように朝刊の紙面を見つめていた。銀縁の眼鏡を通してその少年の瞳に見えるのは、生真面目さと苛ついた感情。

 少年の名は沢渡恭一。通っている高校では落ち着いた性格と真面目な素行で通っている、いわゆる優等生という奴だ。それに引き換え向かい側に座る女性、恭一の姉である沢渡くじらは幼い頃からの悪ガキ具合で名が知れていた。

 くじらが近所のガキ大将を追い掛け回して泣かしては、恭一がその子供の親に謝りに出向き、くじらが運動会のパン食い競争でパンを根こそぎ食らっては、恭一が足りなくなったパンを買いに走らされたりもした。そんなことが何度も続くようになって、いつしか恭一はくじらに対して深い呆れと苦手意識を感じるようになっていた。

 恭一は高校一年生、今年の春から近所の東名寺路高校に通うことになった新入生である。東名寺路高校には卒業した中学校の先輩が数多く入学しているので、特に違和感などというものはなくすんなりと新生活にも慣れたところである。

 東名寺路高校のOBであるくじらは新卒の社会人である。果たしてくじらはまともなところに就職できたのか、と近所の小さいときにお世話になった奥様方々は口を揃えて言っていたようだが、無事どこぞへとスーツを着て毎朝出掛けるようにはなっている。恐らく心配はない、と願いたいところである。

 その心配と問題の種であるくじらを一睨みしてから、恭一は口の中で水分を吸い尽くして抵抗し続けていたトーストを無理やりに飲み下した。そしてふと、

「……」

 恭一は四年前から空席になっている自分の隣、そして向かいのくじらの隣の席に視線を走らせる。四年前までは恭一の隣には父親が、くじらの隣には母親が座っていた。

 父も母も、今は骨だけしか残っていない。既にこの世には存在していない存在を追い求めることほど無意味なことはない、幼い頃から妙に冷めていた恭一は目の前に両親の遺体をおいたとしても激情を働かせることはついになかった。

 当時小学生だった恭一は祝日なので図書館に行っていた。その日は不思議と本を読んでいてもなぜか頭に入って来ず、具合が悪くなるほどまでに酷い頭痛もいつしかし始めたので、嫌な予感を引き連れて早々に家に帰った。

 家のドアを開けた瞬間に背筋がゾクリと冷えた。予感に急き立てられる様に父親がいるはずの書斎の扉を開く。形容しがたい死の臭い、古書にかかる鮮血。横たわる父と、開いたままで閉じる気配のない瞳。恭一は小さく息を呑み、次いで母を探すべく見当をつけて家を駆ける。

 母も同じように台所で同じように命を落としていた。ぐつぐつと煮立つ鍋は、ほんの少し前まで母親が生きていたことを証明するかのようにパスタを茹で上げていた。真っ白な台所が自慢だったはずなのだが、わざわざ白衣を染めるかのように大量の血液が台所中に迸っていた。

 ここまで来たところで、またいつものように思考はフリーズされる。

 恭一はこれ以上ビターな過去を思い出すまいと視線を下に向ける。政治家の汚職事件が小さく載っている新聞の記事へと視線がたどり着く。過去のことだ、と気にもしてない風を装って恭一は再び新聞を読み続ける。

「あ、この事件」

 不意に、くじらが素っ頓狂な声を上げる。

「え?」

「ほらこの一面、また猟奇殺人だって。…警察は連続殺人事件と断定、って書いてある」

 いつの間にか文庫本を置いて恭一の持つ新聞に手を伸ばしてくるくじら。恭一がそれを手渡すと、くじらは新聞を小さく折って一面の記事に頭を突っ込んでいる。

「例の…ほら、お腹の中がからっぽになってたっていうあの殺人事件と」

「そんな事件あった…?」

 両手で丸を作って見せるくじらに訝しの視線を送る。

「あったわよ。辰名の方の繁華街で、早朝にゴミ捨て場に死体が放置されてたって事件。主立って傷跡もないから解剖してみたら、臓器という臓器が全て体から消えていた…っていう」

 恭一が新聞を読まない日はない。だから必然的に世間で騒がれている話題なら全て入ってくるはずなのだが、恭一はそんな事件を聞いた覚えがなかった。しかしそこで思い出した、というようにくじらは顔を若干上げる。

「あ、そっか、ちょうど二ヶ月前、キョウくんが検査入院で病院に入ってたときの事件だったから」

「…僕と世間との接点がなくなってた時に起きた事件か」

 恭一には生まれつきの持病があり、一年に一度の検査入院があるのである。それがちょうど二ヶ月前の梅雨時のことだったのだ。結果はシロで、今もこうして普通に学業をこなしているのであるが。

 恭一の思案顔をよそに、くじらは続ける

「それでその、とびきりきっつい猟奇殺人がまた起きたわけね。今度は体から全ての血液が抜かれてて…やっぱり外傷はないみたい」

「やる方も相当頭がイカレてるか、それとも逆に素晴らしいくらい冴えてる冷徹な奴か。どっちにしても穏やかな話じゃないね」

「…うわ、この事件、東名で起きてるわよ!?」

 慌てふためいて今にも新聞を引き千切らんとするくじらを恭一は冷静に宥める。恭一たちが住んでいるこの東寺路町は東名市に属しているのだ。

「東名って言っても、蛟町は寺路とは真逆の方にあるでしょ。……そういえば蛟って言えば辰名に近いな」

「つまりおんなじ犯人ってことよね」

 それは少し結論が早いような気がする、と恭一は口にしようと思ったが、よく考えてみればこんな奇怪な殺人事件を違う犯人が起こしたなんて考えたくなかったので、大人しく口をつぐむことにした。

 恭一は壁にかかっている時計を見る。そろそろ家を出なければまずい時間になっていた。

「それじゃ、僕は先に出るよ」

「ん、わかった」

 再び読書に入ろうとしている姉を見て落ち込み、それを振り切りカバンを手に取って恭一は家を出た。

 

 

 恭一が住む東寺路町はベッドタウンである。

 中央を二級河川の東名川で分断され、東西に二分される寺路町。東は教育施設や市民体育館などがある静かな住宅街で、西には寺路町に足を踏み入れる若者の受け皿となるような小さめの繁華街などがある。二つにはそれぞれ東寺路町、西寺路町という名がある。

 東寺路町の隅にある沢渡宅から恭一が通う東名寺路高等学校までは、自転車を使えば10分とかからない距離だ。中央通りを抜け、東名川の河川に沿って自転車を走らせていると寺路橋が西寺路町とを繋いでいるのが見えてくる。更にそれを抜けると恭一が幼い頃に通っていた東寺路小学校があり、それを越えれば東名寺路高校は目の前である。

 ちなみに猟奇殺人の起こった辰名とは東名川のかなり上流にある街で、電車を使えば三十分程度でたどり着くことができる場所にある。

 いつものように大きなカバンを背負い恭一は愛用の山チャリを漕ぐ。いつものように河川を走り、寺路橋を抜け、東寺路小学校を越えた辺りで、いつものように見知った背中を追い抜いた。

「よぉ!」

 追い抜いた矢先に背後から呼び止められる。徐々にスピードを落として行き、ブレーキをかければキュッ、と子気味のいい音を出して恭一の山チャリは停止する。

「おっす、恭一」

「おはよう、史賀」

「今日も時間通りだな」

「…それが特技みたいなものだからね」

 史賀。恭一と同じ制服に身を包んだ、スマートながらも筋肉質で、近寄りがたいオーラを持つ男。一見何事も腕っ節で解決するような不良に見える男だが、実は争いごとが嫌いで軟派者なこの男は恭一の小学校時代からの親友だ。フルネームは灰枝史賀。女好きなことで寺路町に名を馳せ、しかもそのルックスのよさと人のよさで女生徒の人気を悉く勝ち得てきた、いわゆる勝ち組という奴である。

 だが付き合う女性すべてがどうにも食えない人ばかりで、史賀はこれまで女性関係でいくつも散々な目に会っているはずだった。

「お姉さんは元気か?」

「あぁ、相も変わらずだよ」

 ちゃりちゃりと自転車のチェーンが回転する。二人は通学路をのろのろと歩き始める。

「今朝も、朝刊の事件を見て鬼の首でも取ったかのように騒がしくしてた」

「…っていうと、例のあの事件のことか?」

 気だるげに自転車から降りて手押ししていた恭一は、ゆっくりと横に立つ長身の男を見上げる。やはり朝刊の一面になるくらいだから、かなり話題になっているのかもしれない。

 恭一はそれとなく話を伺ってみることにした。

「史賀も、やっぱり気になる?」

「……、まぁそりゃあな。位置的にもすぐそこだし、死んだ奴は俺たちと年齢も近いみたいだしな」

「そうなの? そこまで新聞を見る時間はなかったんだけど…」

「あぁ。しかしまぁ、犯人も挑戦的だよな。この平和な日本社会で警察に喧嘩売るような真似…死んでる子らはみんな若い女の子だって言うぜ?」

 その言い方に恭一は小さな引っ掛かりを感じた。

「みんな、って言ったって…まだ二人でしょ、断定はできないんじゃない?」

「え、あ…いや、そうだよな。まぁ、それもそうだ」

「…? 史賀、何か知ってるの?」

「な…、何を知ってるって?」

 珍しく史賀が動揺の色を見せている。恭一はそれを敏感に感じ取ったが、どうも史賀はそのことを隠していたい様子なので、それ以上踏み込むことはやめた。史賀の父は少し危ない仕事をしていて、その関係で普通の人が知り得ない情報を史賀が知っているということも少なくはないのだ。あまり根掘り葉掘り聞いていてはかわいそうだというものだった。

 それ以上恭一が突っ込んでこないことを理解したのか、史賀はあからさまに話の内容を摩り替える手段に出た。

「…ま、まぁそれはさておき、今日は頼みがあるんだ」

「いやだ」

 ワックスで形作られたセミロングの茶髪が揺れ、鼻筋の通った美しい顔がにやにやとした厭らしい笑みと共に崩れていく。

「いやいや、言うと思ったけど…」

「史賀の頼みはいつもいつもリスキーなんだよ」

「よくわかってらっしゃる。そして今日の頼みはというとだな…」

 恭一の制止を聞くわけもなく、

「まぁ、単純なことだ。今日一日俺のスポーツバッグを預かってて欲しいんだよ」

「バッグを?」

「そうそう、実は今日彼女が俺の部活を見に来るって言うんだよ!」

 史賀はサッカー部に所属していただろうか。例によって恭一と並んで歩く少年は女好きで有名であるのと同時にあっという間にフラれることでも有名だ。恭一は一ヶ月と同じ女性が史賀の傍にいるところを見たことがなかった。史賀が言う彼女とは恐らく、恭一が一番最近把握している動物好きで茶髪のロングヘアがチャームポイントのあの女の子ではないのだろう。

「それとバッグを預かるのと何の関係が?」

「またまたぁ、わかってンだろ? 家に置いておけないようなものを部室のロッカーにまとめて入れといたんだけどよ。もしもってこともあるだろ? 何かの拍子にそれが彼女にでも見つかったら……! 考えるのも恐ろしいぜ」

 史賀は大げさに身震いするような真似をしてみせ、そしてすがりつくように、

「頼むよ恭一サマ。今度なんでも言うこと聞くし、潔くパシられてやるからさ」

 と、恭一の制服の裾を掴んで慈悲を乞う乞食のように深く深く頭を下げた。

「…みっともない。わかった、わかったからとっとと離しなさいっ」

「おお、わかってくれたか! そしたら放課後にでも部室に寄ってくれよ、大事な荷物を渡すから」

 ようやくして離れた史賀を横目に、自転車のサドルに腰を落ち着ける。

「やれやれ…」

 恭一は呆れと苦笑の混ざるため息をついてから、駐輪場へと向かうために深くペダルをこぎ始めた。

 

 

 校内は案の定というべきか、怪奇好きな若者はやはり朝刊に乗っていた例の連続猟奇殺人の話で盛り上がっていた。それも仕方のない話なのかもしれない。平凡という名の折の中に閉じ込められた若い鳥たちは、刺激を求めて常に自身の羽をばたつかせているものだ。そこへきて身近な近所で起こった猟奇殺人とあれば、飽きるまで根も葉もない噂話が飛び交うことになる。

 曰く。被害者は総じて闇の組織に臓器なんかを切り売りされたのだとか。

 曰く。二つの事件に共通して一日二日でできる殺害方法ではなかったとか。

 曰く。これは推理小説の中身に準えた犯人の独りよがりな芸術的犯行であるとか。

 ここまで来れば大したものだが、犯人は人ではなく得体の知れない『何か』であるのだとか。恭一はクラスの中で無数に耳に入ってくる噂話を適当に聞き流していた。どれもこれも正解とはかけ離れた、当てにならないような見当違いの推理である。恭一は阿呆か何かのように後から後から出任せを口にする無遠慮なクラスメイトたちに呆れと小さな達観を感じていた。

 その中の一つの噂話が、恭一の耳に強く入って来る。

「……そういえばだけど、殺人といえば何年か前にも、この辺りであったよねぇ?」

「そういえばそうね。当時はやっぱりうちの親とかもなんだかんだで付近パトロールとかに駆り出されてたっけなぁ」

 恭一は傾けていた耳を閉じたい気分に駆られた。向かいというか、ほんの少し離れた席に座っているショートカットの女生徒とそれに相対する少しふっくらとした女生徒。彼女らが話していることは噂話の延長上のもので、悪気があるわけではない。現にこのクラスの中で恭一の両親が殺されたことを知っているものはいないのだ。恭一は加速度的に空虚になっていく心を押さえ込み、なんとか平凡を保とうとする。

「確かそれも随分と悲惨な殺人事件だったのよね。当時小学生だったかの子供が第一発見者で、父親と母親が刃物かなんかでグチャグチャにされてて……」

「うわぁ、それ酷いな。あたしはただ人が死んだくらいにしか聞いてなかったんだけど…」

「……あれ? そういえばその第一発見者の子供って、確かあたしたちと同い年のはずだよ」

 ドクン、と心臓が跳ねた。

 恭一は自身の額に気分の悪い汗が零れ落ちているのに気付く。

 もしその被害者の子供、第一発見者の子供が自分だと知られたら、今までとは接し方が変わってしまうかもしれない。いや、そんなことは大した問題ではないのだ。ただでさえクラスでは浮いている存在で、あまり人から声をかけられる存在ではない。ただ唯一怖いのは変に同情をされて、埋めたはずの過去をまた自身の手で掘り返してしまうかもしれないという恐れ。何年も前の両親の死という事件は恭一の中では既に吹っ切っている問題だった。

 しかし恭一の願いは届くことなく、女生徒同士の会話は尚も進む。

「もしかしたらこの高校に入学してるのかもね」

「いやぁ、さすがに引っ越してるっしょ。家族が死んだ土地で生活したいなんて誰も思わないよ」

 悪かったな、未だに同じ家で生活しているよ。と恭一は悪態をつくようにフンと鼻を鳴らした。

「そういえばその、殺された人ってなんて言ったっけなぁ?」

「んー確か、さ…なんだっけ」

「さ? 覚えてるような覚えてないような…」

 恭一は諦めの吐息を吐き出す。この際苗字くらい明るみに出ようが、他人のフリをすれば隠しとおせるだろう。恭一は興味を失って手持ちの教科書に目を通そうとカバンの中に手を突っ込んだ。

 そうこうしているうちにふっくらとしている女生徒の口元が沢渡を形作ろうとして、

「っ…さ、斉藤だよっ!!」

 ガタン…、と何か、崩れたのだろうか。恭一が顔を上げるとクラスの時間が止まっていた。……と、勘違いさせるように皆が硬直していた。

「あっ、……あの、こ、これは……違くて…え、えーと」

 声は背後からしている。恭一が振り返ると、盛大に椅子をひっくり返して立ち上がった小柄な少年が、顔を煮上がったゆでだこのように真っ赤にしていた。

 何の変哲もない男子用の制服を着て、少し長いくらいの髪の毛は今時分珍しい黒髪。幼すぎる印象を受ける、どうやら声変わりも未だ済んでいないらしい。いや、それより…と恭一は思案顔を作った。こんな奴クラスにいただろうか? 見覚えのない顔だ。すぐ後ろの席に座っていたというのに存在感が全くないというのは、一種の特技という奴か…シンとした教室の中で恭一は一人場違いなことを考えていた。

「…匙川クン?」

「はっ、ひゃい!?」

「あぁ、いや…斉藤さんか、そうね…そんな苗字だったわ……」

「あ、は、はいっ…そうです、その事件の被害者は斉藤さんですっ」

 匙川クンと呼ばれた匙川君はあまり人と喋るのが得意ではないタイプなのだろう、極限まで緊張しているといった様子だった。

 時間にして数瞬、クラスは異常なほど静かになったが、特にこれと言って変化はないままにまた日常の騒がしさが取り戻されていく。恭一の視界の隅で二人の女生徒は再び猟奇殺人の噂話を再開していたし、その中に恭一の事件が含まれることはついになかった。

 恭一は再度後方を振り返り、突然の助け舟を出してくれた匙川少年に視線を向ける。

「…ぁ、っ」

「う……」

 はたと、視線が交錯してぶつかり合った。匙川少年はコンマ何秒かで素早く反応して逸らしたようだが、恭一は確かに匙川少年と視線がぶつかり合ったことを確信した。やはりそうなのだ。この少年はあの事件の被害者の子供が恭一だと知っていて、知っている上で恭一を救おうと結構なお世話をしてくれたわけだ。

『…余計なお世話、と邪険にする必要性も……ないかな』

 恭一は居住まいを正しながら、心の中で小さく礼を言った。

 結局その日は授業が終わるまで匙川少年との間にこれといったことが起こるわけでもなかった。

 

 

 恭一は史賀から預かったスタンダードな青いスポーツバッグを自転車のカゴから大きくはみ出させながら、帰宅の途についていた。預かったバッグは想像を超えて大きな物であり、中身もぎっしりと詰まっていたのでそれを乗せての自転車走行はかなりの困難を極めた。なので今は一時戦略的撤退として自転車から降り、愛用の山チャリを前に手押しでの帰宅となっている。

 そして大きな問題が一つ。

「……ぐ、ぅ」

 頭痛がするのだ。それもかなり酷い。頭部が割れるとか頭蓋骨が砕けるとか頭骨が地割れするとか脳内がスクランブル交差点だとか、いろいろな比喩表現はあるだろうが、その中のどれを以てしても表現できないような痛み、この場合激痛と呼ぶほうが正しいのかもしれないが、それが先ほどから襲ってくる。

 これではまるで四年前の、あの時のようだ。恭一は痛む頭部を押さえてそんなことを考えていた。しかし悪い予感はまるでしない。きっとこんな如何わしい物がたっぷりと詰まっているバッグをカゴに詰め込んでいるせいだ、と勝手に解釈をして恭一は自転車を進める。

「う、…っぐあ」

 西寺路とこの東寺路を繋ぐ名橋・寺路橋を越えたところの河川敷で、今までの痛みを更に上回るような頭痛が恭一を襲った。しばらく視界がグラグラして、真っ白から暗転へ、暗転から虚空へと目前の光景が定まらない。人通りの少ないその坂の上の道は恭一以外に人の姿は見えず、恭一はただ一人立ち止まって痛みが通り過ぎてくれるのを待つほかになかった。

 と、

「な、あっ…!?」

 自転車が、ふら、と言うべきか、ぐら、と言うべきか、とにかくなんと表現しようが現実に起こった事柄は一つなのでそれを言うが詰まるところ倒れたのである。坂を転がり、川の方へと嫌な音を立てながらゴロゴロと自転車が。その場に停止して、痛みのせいで注意力を奪われて起きた惨事だった。

「しまった…」

 恭一は頭痛のせいかその大事件のせいかわからないが、顔面を蒼白にしてぽつりと言葉をこぼす。遅刻ギリギリ登校の恭一にとって自転車がなくなれば、恭一の明日からの通学はかなわなくなるのだ。

 夕日ももうそろそろ沈み切るという、赤に染まったその時刻。恭一はゆっくりと滑り降りるように坂の下に足を向けた。芝はすっかり伸びきって足元をすくおうと手を伸ばしてくるが、逆にそれがいい滑り止めとなり、結果として恭一を安全に坂の下に導くことになる。

 しかし最後のほうで少しバランスを崩し、ずしん、と鈍い音を立てて恭一は河川の懐まで飛び込んだ。

「つつ…」

 芝の庭園に打ち付けた身体を気遣い、怪我がないことを確認してから恭一は立ち上がった。見回すと、自転車はすぐに見つかる。

「あぁっ!」

 豪快に倒れ、落ちていった自転車はハンドルの部分がやけに不安定な形になっていた。いかに丈夫な山チャリと言えども、数メートルの坂を重力に任せて落ちたのでは無事には済まなかったらしい。恭一は駆けて行って何とか自転車を立たせてみる。どうやら走行すること自体には見た目大して不備はなさそうに見えるが、如何せんどうにも見栄えが悪かった。

 これは思わぬ出費だな、と恭一は頭を抱えて零れ落ちていたスポーツバッグをカゴの中に突っ込んだ。

「……っ、」

 ほんの一瞬だ。何かが聞こえたような気がした。

「え…?」

 恭一は周囲を確認する。別に何が聞こえようとおかしくはない、風の音だったり川の音だったり通行人の音だったりなんだったりと、とにかくそこら中に音は溢れている。でも、これは確かに、生き物の助けを呼ぶ声…?

 たとえばそう、捨てられた犬とか猫とかが新たな飼い主を求めてただひたすらに鳴き続けるような…。恭一は耳を澄ました。梅雨明けの心地いい風の香りに混ざって確かに何かが聞こえるのだ。弱々しく、死に掛けた、何か、何かが。

 徐々にその声らしきものはは小さくなっていく。もしかしたら幻聴であるという可能性も否定はできない。しかしそれは小さくなっていくに連れてなぜか逆に恭一の耳には強く残り始めていた。方向がわかる。距離もつかめる。恭一は急いてその声を感じる方へ駆けた。

「…、あ…?」

 まず最初に視界に入ったのは、茶色い箱のようなもの。それがダンボールという物体であるという事実を脳が認識するまでにそう時間はかからなかったが、それがダンボールであるということを脳が理解するよりも前にそれら全ての思考を破壊する物体を新たに視覚が捉えたのである。それは肌色っぽい、なんだったんだろう。恭一は時間の流れがゆるくなった自身の思考世界で"それ"をじっと見つめてみた。

 その、茶色い箱に何かが入っているのだ。その何かを脳が理解したがらない。ストライキを起こしているかのように灰色の活字が脳内を駆け巡っている。

 恭一は、徐々に現実世界と同化していく自己の世界に取り残されぬよう、必至になって脳を説得してみる。ようやくしてそれは姿形をはっきりとさせ、視界いっぱいに広がる肌色が人間の皮膚であるというこを認識した。それとほぼ同時にその皮膚の持ち主が小さい女の子ではないのだろうか、という疑問も湧いてくる。というかそれは疑問とかそういうもんじゃなくて、事実目の前のダンボールの箱の中に入っている全裸の女の子は…、

「う、うわぁぁぁっ!?」

 恭一は足元をすくわれるような錯覚に陥り、後方へと勢いを良くしてコケた。

 どうやら世界はようやく自分と同じ時間を動き始めたようであるが、それと同時に自身の常識とか理性とか普段の体裁とか世間体とか自己のアイデンティティとかそういうものがポーンとまるで打ち上げ花火が上がって全て爆発して霧散していくかのように、はじけた…のである。

 恭一は荒れる自身の鼓動にムチを打ち、とにかく落ち着くように命令を出す。直ちにそれを受けた恭一の冷静回路は働きを見せて、恭一に現実としての問題を見せた。

 これは悪い夢か。はたまた欲求不満に寄る超凶悪な妄想か。

 徐々に落ち着いてきた自身を掴み確かめるように、恭一は胸に手を置いて深呼吸を行う。この深呼吸というのは古典的過ぎて、熱いものに触れたときに耳たぶを触れば冷えるとかそういった次元のものと同じようなものだと思われがちだが、この深呼吸というのはかなり効果的な方法だ。非常事態において深呼吸を行うと多くの場合において冷静さと常識を速やかに取り戻すことができるのだ。

 恭一は閉じていた瞳を開けて、現状確認に徹する。

 どうやらダンボールの箱の中に入っていたのは小さな女の子のようであった。それだけでもかなり非常識なことなのだが、更にその子はまるで捨て犬のように全裸で、寒さに震え縮こまり、目を閉じて眠っているように見えたのだ。いや、見えたのではなく、間違いなくそうだった。

 恭一は恐る恐る立ち上がって、再びダンボール箱のそばへと歩みを向ける。

「う、わ……」

 それはホントに女の子だった。夏前と言っても夕暮れ時、素肌を隠すものがない状態ではどれほど寒いのだろうか。白く透き通るような肌は小さく震え、その程を知らせる。真っ白な髪の毛はその異国人的な風貌に良く似合っていた。しかし異国人と言ってもどこの国だか判別がつかない。日本人のようにも見えるしアメリカ人にも見えるしロシア人にも見えるし、全く見たことのないような顔立ちだったのだ。それが寒さに震えて、目を深く瞑って今にも泣き出しそうに小さくなっている。

 視界に入る白に程近い肌色は、なぜか恭一の視線を奪って離さなかった。そんな自体ではないと理解はしていても、その幼いながらも蠱惑的な肌の深みに喉が鳴る。まだ膨らみ始めてさえいない慎ましやかな双丘や、薄く備えられたぷっくりとピンク色に実る唇。整われ過ぎて、逆に現実味や生きているような気さえしない、完成されたドールのような少女。

「ぅ、…うぅ」

 その少女がそのまま寝返りを打つように小さなダンボール箱の中で身じろぎをする。そのせいで少女の内股の奥、まだ穢れもなく翳りもない、決して人の目に触れてはいけない聖域とも呼べる小さな箇所が、世俗の空気に触れられようとして、恭一の瞳はまるで魔法、魔性にかかったかのように自然とそのデルタゾーンに吸い込まれ…、

「いっ、だ…ダメだ! ダメだそれ以上はダメなんだぁっ!」

 ぱぁん。小気味良く何かがはじけるような音がして、空気を割った。

「は、はぁ…はぁ…! 危ない、危ないぞこれは! 危ないぞ!!」

 恭一が自身の頬を力の限り叩いた音だった。

 肩で大きく息をしながら、恭一は制服の上着を脱ぐ。そしてそれをできるだけ肌に触れぬように少女を起こして、袖を通した。

「うぅ…なぜ僕がこんな、命を削るような真似を……」

 確実に魂を減らしながら、恭一は幼い少女を過保護に接する。なるべく肌が露出しないよう、制服の前のボタンは全て留める。下半身の方が少々不安だが、当然ながら少女用の下着など持っているわけもなく、こんなに小さい子が履けるようなジーンズなんかも持っていることもなかった。仮に家にあったとしても常に携帯しているわけがない。

 これでよし、と恭一が服を着せ終わり立ち上がる。

「……、いやさすがにそれはちょっと………」

 誰にともなく呟く。

 恭一の中に葛藤が生まれた。それは少女をこのままここに放置して、あとはこの子の本当の保護者に任せて自分は素知らぬ顔をして日常の中に戻る、という極々一般的な常識的思考と、少女が悪漢にこのような無防備な姿を曝して何かイケナイことをされてしまう可能性を加味して一度自宅へ保護しよう、という感情だった。

 正直な話になれば、どちらも正しい。恭一は一般的な思考を持ち合わせており、その裏で困った人を見捨てることができない心も持っている。かといってもしこんなアブナイ格好の少女を連れて歩いたりでもしたら自分が悪漢の汚名を受ける可能性も否定できない。何より彼女の意見を尊重したい、のだがどうにもこうにも少女は眠っているというレベルではなく、気を失っている状態なのだ。叩いても揺さぶっても起きやしないだろう。だとしたらここに放っておくのはかなりの危険を伴うのではないか。なにしろ恭一が服を着せたりしても全くの反応がないのだ。誘拐されても文句は言えないだろう。

 とりあえず少女を背負ってみる。重さはあまり感じない。同世代の子と比べたらこの子はかなりの痩せ型なのだろうか、それともこのくらいの年齢の子はみんなこれほど軽いものなのか。恭一はどうでもいい現実逃避に思考をやりながら、なんとはなしに自身の愛用の山チャリを視界の隅に置く。ここから十数メートルと離れていない。その自転車のカゴから大きくはみ出しているスポーツバッグ。野球部の史賀の持ち物というだけはあって、恐らくサイズ的にはスポーツバッグの中で最も大きな部類に入るのではないだろうか。当然ながらあのスポーツバッグがネックでここまで自転車を手押ししてきたのだ。それなりの大きさは…。

 背負っている少女を確認する。素足とその上の何も着けていない下半身が気になる。制服の上着が彼女にとっては大きすぎてワンピースのような働きをしてはいるものの、やはり不安は付きまとう。少女の体積、大きさ、足を曲げたらどれくらいになるかなぁ。恭一は思案顔を浮かべる。

 楽勝だ。何しろあのスポーツバッグは小さめの脚立を二つ入れても封がしまるような超巨大さなのだ。この小さなダンボールに収まるような少女が入っても少し窮屈な程度だろう。行為に対しての非道徳さは確かに多々ある。しかしこの際手段は問うてられないのだ。優先すべきは少女の保身と自身の保身。恭一はなるべく優しく少女をその場に座らせて、スポーツバッグを取って来る事にした。

 案の定スポーツバッグは重かったが、中身をその辺りに適当に散らした。その中身は見事なまでにピンク色だった。時に女教師物が多いと見えるのは恭一の勘違いであったのだろうか。とにかくよくここまで集めて詰め込んだものだ、と恭一は逆に感心する。

 そしてかなり気が進まなかったのだが、少女を最大限丁寧にスポーツバッグの中に収めた。軽い。間違いなくピンク色の物体なんかより軽い。もし窒息とか危ないことになってもマズいので、チャックは閉じないでおいた。非人道的な行為なのは恭一も百も承知である。人を、それも幼い女子をカバンの中に詰め込んで持ち歩くなどと、一昔前似たような内容のドラマが流行ったことがあったが、あれとは全く物理的に違う。それでも自身の行動を正当化して恭一は坂道を駆け上がった。

「……自転車はあとで取りに来よう。あと預かり物も…」

 恭一は誰ともすれ違わないことを願って、自宅へと駆けて行く。

 頭痛がいつの間にか消えていたことに恭一は気付かなかった。

 

 

 結局誰ともすれ違うことなく、恭一は自宅の門をくぐった。

「はぁ〜……」

 疲れから来る大きなため息をつき、恭一は腰を落ち着けた。少女には何事もなく、かなりの背徳を感じながらの行動だったが何とかやりきった。その当の少女は恭一の寝起きしているベッドの上に寝かされていた。

「……すぅ」

 気を失っていたかのように見えた少女は、布団をかけて暖かくしてやると打って変わって安らかで気持ちよさそうに眠りこけていた。恭一が心配して少女に近づくと、なぜか少女は親を見つけたかのように安心しきった表情になるのだ。いい夢を見ているらしい。

 正直な話、見知らぬ女の子を誘拐まがいの方法で家に連れてきたとくじらが知ったらどう思うだろうか。怒るか、それとも嘆くか。どちらにせよあまりいい方向に転がるとは思えない。少女にしても何があったかは知らないが、全裸のままで屋外に放置されているなどあってはならない状況だ。恐らく彼女の保護者も彼女のことを探しているに違いない。早く目を覚ましてもらわないことには、困ったことになるのは必須だった。

 とりあえず目先の課題として少女の着る物を調達する必要があった。彼女が目を覚まそうにも半裸のままだったら要らぬ疑いを受ける可能性も否定はできぬし、だいたい恭一が目のやり場に困る。とにもかくにも恭一は姉の古着を探しに家内を捜索することにした。

 ……と、まぁそんなことを言っても家中の状態や家事全般を任されているのは恭一なのだ。くじらの古着くらいどこに置いてあるかもきちんと把握していた。二階の物置の奥から適当に少女に合いそうな服を二、三見繕う。

 女物の下着なんかを持っていると妙にドキドキする。恭一は頬を無意識のうちに赤らめながら自室に戻った。服をベッドの脇に置き、恭一は少女の様子を見る。相変わらずのんきで可愛らしい寝顔である。と、そんな少女の唇が何かを形作る。

「…水ぅ、喉が…渇いた」

 初めて少女のまともな声を聞いた。恭一は僅かな感動を覚えたが、それよりも先に喉を潤すものを調達するのが先決だ。帰って来たばかりの戸を開けて階下の台所へと駆ける。

 冷蔵庫の中にはまともなものはなかった。どうやら恭一が出かけた後にくじらが作り置きのお茶を飲み干して行ってしまったらしい。中にあるのは紙パックのコーヒー牛乳のみだった。幼い少女がこんなものが飲めるかどうかはわからないが、ぬるい水道水なんかよりは幾分かマシだと思えた。なぜならこの手のコーヒー牛乳はまるでジュースか何かのように甘いのが定石だからだ。

 ストローをつけて少女の口元にコーヒー牛乳を持っていくと、やや眉根を寄せて小さな嫌悪の表情を作ったが、すぐにそれも消えて力無くストローを吸った。少しずつ少しずつコップの中身は消えていって、それが半分もなくなると少女は『…ぷは』と息を吐いてストローを口内から排出した。

「………ぅ、うぅん…」

 少女が何度目かの身じろぎをする。何かあるのかと思い、聞き取りづらい少女の声を耳に入れるため近付く。

「……おかぁ、さん」

 恭一の心臓が僅かに跳ねる。少女の瞳から小さな雫が零れ落ちていたからである。それはゆっくりと頬を流れ、恭一の枕へと蛇行しながらも落ちる。

 と、そんな折、少女の閉じられたままだった瞼がふるふると小さく動いた。開こうとしているのだろうか、恭一は固唾を呑んで見守っていた。

 音のない恭一の部屋に少女の身じろぎと僅かな声の漏れが小さく響く。それは当然のように少女の起床と言う形に紡がれ、徐々にではあるが瞳は開眼の兆しを見せた。そして少女の動きもだんだんと活発なものになり、ようやくして少女は布団一枚を跳ね除けて上半身だけを持ち上げるという全く以て健常者らしい動きをして見せたのであった。

「…、ふぁ……、ぅん」

 あくびか、それに似た物だった。少女は完全に目を開け、そして恭一の部屋を視認する。それが終わると次いでその隣に膝立ちになって少女の様子を伺う恭一を視認する。

「………ここはどこだ!」

「お…おぉ」

 急に上がった大声に恭一は一呼吸仰け反る。

「ハッ!? わ、わたしはなぜこのような格好で…」

「あっ、そ、それは…」

 少女はベッドの上で立ち上がって、未だに恭一の制服の上着に包まれている自身の身体をパタパタと異常がないか確認するかのように叩き出した。

「これはいったいなんの冗談だ!」

 何の冗談かと問われても何の冗談でもないのだからやりようがない。起き抜けにありえないテンションを持つ少女に恭一は更に一歩後ずさった。とぅっ、と自らの口で叫び少女はベッドから飛び降りて無事着地する。恭一の制服はひらひらと舞い続けていた。

「あ、あの…ちょっと」

「ちょっととはどういう意味だ、わたしを呼ぶのにちょっともいっぱいもない!」

「いや、だからその、少し落ち着いて…」

「落ち着くも落ち着かないもあるか。どういうことだ、きちんと説明しろっ!」

 恭一にもの凄い剣幕で詰め寄る少女。少し前までは整ったドールのような美しい表情だったものが、今ではまるで般若の面である。しかしそれほど少女が怒っているようにも見えなかった。

「そもそもここはいったいどこなんだ、わたしは優雅に午後の昼寝と決め込んでいたはずなのに…どこで何がどうなったというのだ!?」

 あぁ、と恭一は思う。これは少々厄介なことになっているのではないか、というか少々どころではなくとてつもなく大きな問題を抱え込んでしまったのではないか。幼くか弱そうな外見から心優しく穏やかな少女を想像していた恭一だったが、これではまるで詐欺ではないのか? 詐欺も何も恭一が勝手に少女を誘拐まがいに自宅に連れ込んだだけなのだが、しかし物には限度って物があるだろう。少女の怒り(?)は最もだが、とりあえずもう少し落ち着いて話をしたいのだ。

「…あのね、ここは僕の家なんですよ。ちなみに僕の名前は沢渡、沢渡恭一です」

「どっちが名前だ、聞き慣れない名前で判別が付かないだろう!」

「聞き慣れないと言われてもな……」

 そこで再び少女のどこの国の人間だかわからない顔つきを見る。やはり日本のお方ではないのだろうか。だがしかし今こうして使っている言語は一般的に日本語と呼ばれるものであることに代わりはないのだが。

「名前は恭一だけど」

「そうか、それでなぜわたしは恭一さんの家にいるわけだ?」

「…実は先ほど近所の道端で意識のない君を見つけまして、しかも君はなぜか全裸だったものですからこれでは悪漢に襲われても文句は言えないのではないかと要らぬ心配をしてしまいまして。それであなたを保護するという意味で僕の部屋に運び入れたわけです」

 恭一はなるべく冷静に、なるべく簡潔にただ事実のみを述べる。こういうときに丁寧な言葉が出てしまうのは人としての性分である。

「これは恭一さんの衣服か?」

 少女が着ている制服の上着をポンポンと軽く叩く。

「その通りです。一糸纏わぬ姿だったあなたに僕が着せました。もちろん変な気を起こすとかそんな類のものはありませんでしたよもちろん、全てあなたの身を案じてのことです」

 恭一は敢えて少女をスポーツバッグに詰めて持ち運んだことには触れなかった。そのような狼藉行為は人に知られることなく忘却してしまうのが一番の手なのだ。少女はとりあえず一時の冷静さを取り戻したのか、ベッドの縁に腰掛けて恭一の話に黙って耳を傾けていた。その顔には小さな思案と葛藤と不安と、そんなものが混ざっていた。

「理解してもらえた?」

「言い分はわかった。わたしはその辺に素っ裸でぶっ倒れてたってことだな? いやなに、真っ向から否定するつもりはないぞ、恭一さんの目は嘘をついてる目じゃないからな」

「…その恭一さんってのは口調と随分合ってないな」

 恭一が的外れなことを呟くが、どうやら少女にそれは聞こえていなかったようだ。

「わたしがその場所で寝てたとき、何かおかしなことはなかったか?」

「おかしな…っても、例えば君はダンボールの中に入って寝てたわけだよ。まるで子犬か何かのようにね」

「…なるほどな。まぁそれは置いておくとして、わたしは、」

「ちょっと待って。落ち着いてくれたのはいいので、新たに話をする前に着替えをしてくれないか? いつまでも制服一枚では風邪を引いてしまうかもしれないし、何よりあまり見ていて心が穏やかになるものじゃない」

 むぅ、と少女は一言発する。恭一はあらかじめ用意しておいたくじらの古着を少女に渡して着るように言った。そしてそのまま少女の返事を待たずして部屋の外へと非難する。目を背けた瞬間に衣擦れの音がし始めていたからである。

 恭一はしばし思考の渦に飛び込んだ。

 とりあえずなんとか少女は落ち着き冷静さを取り戻してくれたようだが、先ほどまでのテンションの高さといったら尋常ではなかった。子供ならではの元気さというところか、と恭一は妙に達観を見せる。彼女が常識人であったおかげで恭一にあらぬ疑いがかかることも、犯罪者の汚名をかぶることもなくなったわけだが、恭一は先ほどからただならぬ不安を感じ続けていた。

 それはある意味直感であり、しかし確信を持って言えることだった。何か嫌な気がする。そんな確証のない、そして言いようのない言い表せない不安。少女に対して感じているわけではなかったが、その少女が何か関係してくるであろうことは予測できないこともない。こう見えて数多くの修羅場をくぐってきた恭一だからこそ言えるセリフだった。

「…何か、ある」

 その呟きと同時に、部屋の中から少女の恭一を呼ぶ声が聞こえる。おーい、だとか、ちょっとー、だとか、すまんが…とか。言葉だけ聞けば普通なのだが、あの出来過ぎた人形のような美しい顔立ちで面と向かって喋っているとどこか次元の違う世界に来てしまったかのような錯覚を受けるのだ。とにかくぼーっとしてても仕方がないので恭一は部屋に戻った。

「すまないがこれの着付けの仕方がわからないのだが…」

 要するにあれだ、くじらの古着なんて今から十年も前の物なので、実のところデザイン的に現代の社会で通用するかといわれたらそれはNOなのだ。それも踏まえて恭一はなるべくシンプルでオシャレな感じのシャツとスカート、それと下着。上のほうの下着は恭一にはサイズとか何とかいろいろわからないことが多かったので、ゆったりしたサイズのシャツを選ぶことで回避した。

「これは、いったいなんなのだ? わたしはこんな衣類見たことがないのだが…」

 少女がなんのことだと問うているのはスカートのことだった。普通に着用すれば膝下数センチくらいであろう平均的な可愛らしいスカートだ。こんなものを身に着けてくじらはピンポンダッシュ三十連射をしていたのかと思うと忘れていたはずの苦い過去が思い出されてくる。一生懸命に記憶の奥底にそれをしまいこんで、少女のそれを見る。

「あのね、君、危機感というか羞恥心とか言うのを持って欲しいんだよ僕は。どこの世界に名前を知ってるだけの男をパンツ一丁で迎え入れる淑女がいますかね?」

 少女はシャツを着ていなかった。それはシャツが一番下になるように渡したからなのか、それとも何か考えがあってのことだったのか、少女はとりあえずパンティだけは履いていて、なぜか黒くてシックな感じの素敵スカートを頭からかぶって『シャンプーハットが首までずり落ちちゃったよ』な感じになっていた。

「仕方がないだろう、あまり見たことのない衣類なのだ。かろうじてこれが肌着であるということは理解できたが、このやけにひらひらした感じの布の塊はなんだ、何かの部族の祭舞衣装なのかと疑ったぞ。ちなみにこれで着用の仕方は合っているか?」

 全然違う。どこの世界にスカートを前掛けにする少女がいるというのだ。

「そのやけにひらひらした感じの布の塊はスカートと言ってですね、主に腰より下に着用するものなので、上からかぶるのではなく下から履いてくださいな。そしてそれが済んだら残りのシャツを頭からかぶるわけです、前後ろは着て違和感があれば間違っている証拠です。わかりましたか?」

「…随分丁寧なんだな、いい夫になるぞ」

 それはどうも、と恭一は社交辞令的に頭を下げて再度の退出を試みた。

 パタンとドアが閉まり恭一はやはりと思う。似ているのだ、奴に。奴というか、恭一にとっては最も苦手な相手であり最も親しい人間であり、最も長い間一緒にいる人。その名を沢渡紅白と言い、恭一は親しみを込めてくじらと呼ぶ。幼い頃から悪行の限りを尽くし、回りに迷惑をかければ恭一が謝って回った、忌まわしい過去である。成人してようやっとその脅威も薄まったかと思った矢先に、この少女、似ているのだ…。

「誰に似てるって?」

「ひゅわぁっ!?」

 突如として視界外から予測していなかった声に、恭一はまるで漫画か何かのようにその場で小さく飛び跳ねる。

「こんなところでなにしてるの? 食事はキョウくんの仕事でしょ、お腹すいたから早く作ってよね〜」

 大分だらしなく着崩れたスーツ姿を曝しつつ現れたそれは今まさに恭一が思い浮かべていた人物、沢渡紅白だった。

「あ、…うん、わかった」

 何事もなかったかのように「あ〜腹減った」などとぼやきながら恭一の部屋とは離れた自室へと歩んでいるくじらを見て、恭一はそういえば少女のことはどうくじらに説明すればよいものかと思案する。どうやら悩みのタネが増えてしまったようだ。

 とにかく夕飯の準備を怠っていたのは痛いが、少女の問題もまだ解決はしていない。とりあえず警察に保護を頼むかそれか彼女自身が家に帰れるのであれば送っていくこともできるのだが、とにかくなにをするにも時間がない状態だった。この場は貴重な時間を得ることを最優先としてくじらを呼び止めるべきだ、と恭一は結論をつける。

「…あ、くじら」

「ん、なにー?」

「い、いや、少し時間がかかるから、ちょっと部屋で横にでもなっててよ。今から夕飯の支度するから」

 言ってから、少しも不自然な点がなかったかと不安になる。ない、多分ない。

「はいはい、なるべく早くしてね」

 あまり気に留めてもいないような素振りでくじらは自分の部屋の扉を開けて中に入っていった。どうやら時間稼ぎは成功したみたいだが、そうそう悠長なこともしていられない。とにかくこの場は少女と決着をつけることが先決である。恭一も自分の部屋へと舞い戻った。

「どうかしたのか? 何か騒がしかったようだが」

 少女はに誤った着方をしている様子はなかった。一見若者が読むようなティーンズ雑誌の外国人モデルのようにも見える。以前何かの本で読んだが、美人は何を着ても似合うとはまさにこのことだな、と恭一は改めて感心の意を示して深く頷いた。

「大したことじゃない、姉が帰ってきたんだ」

「お姉さまがいたのか。恭一さんは少し大人びているからてっきり長兄かと思っていたんだが、まぁさぞかし聡明な婦人なんだろうな」

「…それを本気で言ってるなら、僕は君を哀れんであげるよ」

「どういう意味だ?」

 わからないならわからないままで終わればいい、恭一はこの話を打ち切って新たな議題を提案する。

「それはともかく、君は警戒感なくのんきに見ず知らずの僕の部屋なんかにいるけど、自分の家に帰らなくて平気なの? もうそろそろ時間的にも『夜分遅くに申し訳ありません』の時間だけど」

「…ふむ、それなんだが」

 少女は今までとは打って変わって真剣な表情を見せる。恭一もそれにあわせて真剣な目で少女の瞳を覗き込んだ。

「残念ながらわたしには帰る家がないみたいなんだ」

 さらり、と少女が言葉を吐き出した。恭一は少々時間が経ってから、目の玉を丸く見開いた。

「……え? そ、それって、家出とかそういうの?」

「それとは違うな。本当にこの世界にはわたしの帰る家がないんだ」

「ご両親は…?」

 恭一は淡々としながら身の上を話す少女に、知らず心配の感情を抱く。少女はベッドに西洋人形のようにちょこんと座りながら何事もないように話を続けた。

「はて、父はわたしが幼い頃に死んだと聞かされた。母はそれからしばらくわたしを育ててくれたが、物心が付く頃には既にもう傍にはいなかったな」

「それじゃあ今までどうやって暮らしてきたの? 親戚の方の家にいたとか?」

「幼い頃の記憶はあやふやだからな。しばらくの間は父と旧知の間柄にあったおばさんに育ててもらった。血縁ではなかったが良くしてくれたいい人だった」

「…じゃあ、帰る家がないって言うのは?」

「帰る家がないというよりは、帰る場所がないという方が正しいのだろうな…」

 少女は一呼吸置いてから、恭一の色素の薄い瞳の奥を見通すような不思議な視線を向けた。

「……腹が、空いたなぁ」

「あ、…あぁ、君の分も作るよ。苦手なものとかある?」

 恭一は、少女が敢えて突然に話題を変えたのだと感じた。そして望み通り調子を合わせることにする。

「いや、特にこれといって…、」

「ねぇキョウくん、誰か来てるの?」

 カチャリ、とドアが開く音がして、それが少女の発言を止めた。そしてなんとも形容しがたい好まれざる気配が恭一の部屋に侵入してきた。

「…………あれ?」

「う?」

「あー……」

 ジャージ姿に着替えたくじらは目を点にして、小柄な少女は家犬のように丸まって、恭一はどう動けばいいのか状況をつかめず、三人の間に数瞬の沈黙が流れた。

 

 

 くじらはなぜか躊躇なく、少女を夕食の卓に誘っていた。なぜか二人は妙に息が合ったようで、10分もすれば初対面とは思えぬほどに打ち解けていた。

「そしたらそのガキ大将はあたしに向かって、泣きつくように助けてくれって言うのよ!」

「そ、それで、そのタイショウにくじらはどうしたのだ!?」

「うん、だからあたしは言ってやったわ。『あたしが手を差し伸べるのは童顔の男の子だけよ!』ってね」

「くじらは男気が強いなぁ!!」

 微妙にかみ合っていないような気がしないでもなかったが、恭一が手作りハンバーグをこねている背後で、得意そうに語るくじらと幼い少年のように食いつく少女はまるで本当の姉妹のようだった。

「キョウくん、こんなにかわいい子どこからさらってきたの?」

「な…、さらってきたわけじゃないって!」

 くじらが楽しむように視線をやってくる。

「なんか、行き倒れてるようだったから保護しただけだよ…」

「ふぅん…」

 くじらのからかいから逃れるように夕食作りに没頭することにした。そうするとしばらくしてハンバーグが焼きあがる。

 恭一が少女の目の前に皿盛りにした白米と片目焼きつきのハンバーグを置くと、少女は真ん丸い瞳をキラキラと輝かせてまだかまだかと催促するように恭一に期待の眼差しを浴びせ続ける。

 全員の分の皿を並び終えて、恭一も席に着いた。少女はお腹を鳴らして、まるで漫画か何かのようにヨダレを垂らしてGOサインを待っている。

「いただきます」

『いっただっきまーすっ!』

 恭一が手を合わせて頭を垂れると、それにあわせて二人も従った。

「…あぁ、ところで外人さん、君の名前はなんていうの?」

 くじらが大きくカットしたハンバーグを大口に含みながら尋ねた。くじらもそう考えている通り、この少女は外国の人のように見える。だがどうも国籍が不明な感じがするのだが…。

「クォーツ」

 にべもなく肉を頬張りつつ答える少女。いや、クォーツ。というより食事の方に気を取られているのか、他に注意が行かないのかもしれない。

「やっぱり、日本人じゃなかったのか」

「そりゃあキョウくん、こんなおとぎ話から飛び出してきたような女の子が日本人なわけないじゃない。髪も白いし」

「ん、む…むう、もぐもぐ。そうだな…まぁどこが出身かは秘密にしておくか」

 不思議な間が流れ、クォーツがはむはむと口の中に食料をかっ込む音が際立って聞こえた。

「…でさぁキョウくん。さっきこの子と話し合ったんだけど、どうやら帰る家がないって話なのね?」

「あぁ、聞いたよ」

「それで、まぁ夏の間だけでもうちに置いてあげたいと思うんだけど、どうかな?」

 その場に、小さな沈黙が訪れる。

「……え?」

 恭一の声ではない。なにしろ恭一もその選択肢を可能性の一つとして考慮していたのだから。

 では、誰か?

「置くって? わたしをか?」

 今まで無心に肉塊を頬張っていたクォーツのものだった。

「何か、都合悪いかしら?」

「…特にないが。で、でもっ」

「断る理由、ないでしょ?」

「う…ム、………ない」

 改めて見ると、くじらはやはり押しが強いのだと、恭一は感じた。そしてそれを押し切れるだけの眼力と、やはり場数が違うのだろう。

「幸い…部屋はあるしね」

「そうね、あたしも妹ができるみたいで楽しみだわ」

 クォーツは困惑している様子だったが、少なくとも嫌がっているような雰囲気は感じ取れなかった。

「…恭一さん、ホントに大丈夫なのか?」

「え、…何が?」

 恭一にだけ聞こえるように、クォーツは声を小さく絞った。

「わたしみたいな素性不明の人間を家に置くってことは、随分と…、その、危険なことなんだぞ」

 何か躊躇するような、言葉を選んでいる節があったが、恭一は気にせずに会話を続けることにした。

「…君は危険なの?」

「まさか! わたしは恩を受けた人間に仇を返すほど落ちぶれてはいない!」

「じゃあ平気だよ。それを言うなら君の方こそ、こんなよく知りもしない他人の家に腰を落ち着けるなんて、危険じゃないのか?」

 それを言うと、クォーツはうっ、と小さくたじろいで、持っていたフォークを取り落とした。

「……恭一さんは、わたしを拾ってくれたし、腹も満たしてくれた。危険かどうかを疑うような理由がない」

「でも、もしそれが全部君を騙すための演技だったとしたら?」

「…そうなのか?」

 クォーツは少し不安そうな、というよりやや泣き出しそうな表情をしてから恭一にすがるように尋ねた。恭一はそれを受けて一瞬言葉に詰まったが、安心させるようににこりと笑顔になった。

「僕は君みたいな女の子を騙そうとするほど、落ちぶれてるつもりはないよ」

 クォーツは安心したようにほっと息をついて、それから恭一に笑みを返した。

「ねーねークォーツちゃん。やっぱり『クォーツ』じゃあちょっと日本で過ごすには面倒よね」

「…なんだいやぶから棒に、うちの姉は」

「いやいや、だからこう、通り名的なものがあればいいかなぁと思ったんだけど。外人っぽい名前じゃ妙な距離感ができちゃうしさ」

 くじらは食べ終わった食器を重ねながら、『ナイスアイディアでしょ?』とばかりにニヤニヤ笑いをしていた。

「そこで、クォーツの頭を取って、クオ…紅緒ちゃんなんていいと思うんだけど、どうかなあ?」

「……え、あ、わ、わたしの名前の話か!」

「いや、他に誰がいるんだよ…」

「いいのではないか? 好きに呼んでもらって構わないが、…呼び名一つで何が変わるというわけでもないように思えるがな」

 まさにその通りだが、紅緒という名前に恭一は個人的に好感を抱いたので、言葉にはしないことにした。

「さぁて、それじゃ紅緒ちゃん。とりあえず紅緒ちゃんのお部屋は後から考えるとして、まずはお風呂に入っちゃってもらえるかしら? どうもどこかしら土か何かで汚れているように見えるからね」

「……オフロとな」

 くじらに言われて気がついた。確かに少女にはところどころ砂埃に吹かれたかのような汚れが見えた。まぁ、素っ裸で川原に放置されていては無理もないのだが。

「紅緒。風呂ならリビングを出て玄関へ向かう途中に、右側に洗面所があるから、そこだよ」

「……ふむ、そうか」

 紅緒は何か不満そうに、いや疑問を持っているかのように、腕を組んで首をひねっていた。それがまた絵になるほどに可愛らしく、恭一はプッと笑い出したくなるのを必至に堪えた。

「…何か、問題でもある? 紅緒」

「いや、言いづらいのだがな…」

「なぁに、紅緒ちゃん?」

 くじらと共に恭一は紅緒に注目する。そして紅緒はおずおずと口を開いて、

 

「オフロとは一体なんなのだ?」

 ……その晩、本当に紅緒を家に置くかどうかで二度ほど家族会議が開かれた。

 

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