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 序章 生き残る火種

 

 また一つ、怒りとも悲しみとも取れぬ叫び声が上がった。目の前の道を塞ぐように、それは意思を失った傀儡人形として倒れた。胸に突き立った金色の矢羽根は、打ち倒されたのが敵軍の兵士であるということを物語っている。しかしそれはただの憶測でしかあらず、もしかしたら味方の弓兵を敵軍の兵士が殺した上で弓矢を強奪されたという可能性も捨てきれない。そして目の前で倒れているのが敵軍なのか自軍なのか、汗と油と涙でグシャグシャにかすんだ視界では、やはり判別は難しい。

「っ、ぉぐ…ぐぅぉああッ」

 また一人、甲冑の隙間を狙われた哀れな兵士が首から金色のアクセサリーを光らせて血の混ざった叫び声を上げる。それはまるで何かの芸術のよう。罪もないはずの人は次々と倒れて行ったし、人を殺した者が次に殺される者となり、そしてそいつを殺した者が次の標的となるこの空間は、まるで何かの楽しいお遊戯をしているような気分にさせる。…遊戯、そうこれはただのゲーム。駒を使って、欲しいものを手に入れるまで、手駒が全て肉塊と化すまで続けられるとても楽しいゲーム。

 血が降り注ぎ、倒れた肉が土となり、怨念のみが残るこのゲームで得をするのは勝者のただ一人。勝者は巨大なイスに座り、静かに戦乱を見据えているだけだ。

 この戦いにルールというものは存在していない。ただ、目の前の人間を斬り、斬られ、討ち、討たれる。躊躇など微塵もない本当の恐怖の中で…迷えば殺される、手を出さなければ殺される。そんな混乱の中で無数の人々は戦い続けている。互いの顔も名前も年も知らぬまま、理由もなく殺す。それが美学で、できない人間は真っ先に死んでいくから。

 ごぷ…、と、まるで腐り切った掃き溜めの中から聞こえてくるような不快な音に、耳を閉じたくなるような衝動に駆られた。それは先ほど討たれたばかりの甲冑。顔もわからず、年も名前もわからず、死んでいくだけの敵兵。興味はない。もう見慣れたものだ、と自嘲するかのように笑おうとした。が、恐怖でずっと引きつっていたのでさっきからずっと笑っているような表情だったらしい。笑うことは諦め、疲れ果てた体にムチを打って再び走り出そうと、『少年』は立ち上がる。

 両手には頑丈に包まれた細長い何か。少年はそれを何より大事そうに抱えて、怒号と絶叫と剣戟と死の飛び交う戦場を抜けようと、足を一歩前に進めた。

 グチュリ、右足が僅かに沈み込む。それはとても不快だったが、死体が降り注いでくる不快さに比べれば屁ほどの嫌悪もなかった。しかし…ただでさえ前々夜から降り続いた雨で足場は潰れているというのに、数えられないほどの死体と無数にできた血溜まりのおかげで走ることは困難だった。少年はその幼く小さな体を活かして隙間隙間を探し、確実に戦乱の渦から抜け出そうとあがく。

 足がもつれようと、息が絶えようと、視界が眩もうと、ただ駆け抜けた。決して狭くはない戦乱のフィールドを少年は生にしがみついて駆け抜けた。一瞬でも気を抜けば敵軍に殺されるかもしれない、自軍の攻撃の巻き添えになるかもしれない、そんな恐怖で体中は震えていた。甲冑の兵の白兵戦の間を抜け、馬に騎乗した騎士たちのランスに貫かれそうになり、矢や爆撃の渦からすんでのところで抜け出す。時には倒れている死人の傍らに隠れ、それを矢面に立たせて逃げ延びる。少年は休むことなく、自軍のテリトリーまで駆け抜けた。

 辺りでは絶えず剣戟と、爆音が響き渡っている。もうこの無益な戦いが始まってから一体どれほどの時間が経過したというのか…生きている人間より死んでいる人間の数の方が多くなった頃、突如としてそれは起こった。

 それは存外にも静かに、しかし怒号や絶叫の中で確かにはっきりと聞こえた。

 まるで小さな風船が割れたかのような、不思議なほど気味のよい音が聞こえた。少年はそれの存在を知っていたので反射的に赤黒い空を見上げた。…死に行く人の血で穢れた空に、一条の光を見出すことができた。それはまばゆく光り輝いて、そして奇妙なほど鮮やかな緑色へと変化していった。

 少年はこの戦場に連れてこられるまでの馬車の中で、その意味を漏れ聞いていた。本来なら恐らく聞かされることのなかった極秘情報のはずだろう…これは『作戦が最終段階』に入った証なのだから。

「…っ!」

 立ち止まる余裕もなく、少年は再び駆け出した。もっと早く、もっと早く、そうでなければ…そうでなければ間違いなく死ぬことになる。

 

『もうどれくらいになる?』

 少年が薄汚い毛布に包まっている中、見張りの兵士がもう片方の兵士に問いかけていた。

『昨夜の晩に奇襲をかけたからな、そろそろ五時間ってところか』

『伝令の様子では戦況は五分とのことらしいが…』

『なに言ってんだ、こっちには爵位級が全員戦に出てるんだぞ…なにが間違っても負けることはないさ』

 揺れ動く馬車の中で、なぜか二人の声は鮮明に聞こえた。少年は眠いのを堪えて二人の会話を逃すことなく全て聞こうと努力する。

『それに…何と言っても例の作戦だ』

『さすがにあれはやりすぎだと思うが……どうなんだろうか』

 二人の声に怯えの色が混じるのが感じられた。何か口に出すのを躊躇われるような、そんな雰囲気だった。

『明けの刻、紛戦地域の完全消滅…最近男爵になられたビブリオン様が二時間の呪令術詠唱をされるそうだ。戦場は跡形もなく吹っ飛ぶだろうな……』

 少年は我が耳を疑った。紛戦地域の完全消滅…、それは確かにはっきりと少年の耳に届いた。

『しかし、そんなことをしては自軍の兵たちも全て死ぬことになるのではないか?』

『そこなんだが…俺達がこの情報を知っているように、中等兵以上には回避方法が知らされているんだ』

『回避方法?』

『まず、ビブリオン様の詠唱が終わる直前に、空に光り輝く花火が撃ち上がる。それはなんと呪令術の特別製でな…この作戦を知っているものにしか見えない花火で、この花火を皮切りにして中等兵以上の兵達は自軍キャンプまで速やかに撤退…というわけだ』

『おい…それじゃあ、下等兵や雑兵、それに傭兵達はどうなるんだ?』

『こちら側の戦力が一気にキャンプへ戻ったら、敵軍に怪しまれる可能性がある。多少の囮役は必要、ってことなんだろう…』

 少年は思わず驚きの声を上げそうになっていた。今の国王の手腕には酷評がつき物だとは前々から噂にはなっていたが…まさか自軍の兵を数百人も残したまま戦場を殲滅するなどと、そのような凶行に出るほどの腐った人間だったのだろうか。

 少年は恐怖に震えながらも、それ以上意識を保っているのは不可能だった。まるで深海に沈んでいくかのように眠りの底へ落ちていく…そして気付けば兵士に起こされていた。

 

 周囲を見るとそれは確かに異様な光景だった。甲冑の質で下等兵、中等兵、上等兵の区別はつく。そしてそれは推して知るべしなのだが、中等兵以上の皆が面白いように、甲冑の首を上げて花火を苦渋の表情で見上げている。そしてをそれをしていないのは下等兵と雑兵、そして傭兵達なのだ。そして花火を見上げていた兵士達は、気付かれぬように一人また一人と戦場から姿をくらまし、消えていった。

 少年もそこで立ち止まっている余裕などなく、安全なエリアまで生き延びるために足を動かし始めた。

 その時点で戦いは一気に敵軍が押し始める。主力の兵達がいっせいに敵に背を向けたとあれば、さすがに下等兵たちだけでは持ちこたえることはできない。困惑しきった下等兵たちはまるで何かに憑り付かれたかのように剣を振るっていた。

 少年はいつの間にか山のように幾重にも重なった自軍の兵士を踏みつけ、そして乗り越えた。ちょっとした丘になりつつある肉と鉄の山を制覇したところで、自軍のキャンプが見え始める。そこではきっと呪令術を使う人間が、この戦場を焼き払おうとしているに違いなかった。少年は急に何か右胸の少し下辺りに強い疼きを感じ、一瞬の眩暈に襲われてその場に倒れこむ。

 鮮血が、見えた。

 自身の体から流れ出る赤き生命の名残に、不快な嘔吐感と奇妙な快活感が生まれる。気持ちの高揚が生まれ、人をこの手で殺してやりたいと、思考がそういう方向に働いていく。

「う…、ッ…くぁぁ」

 緑色と、赤色のグラデーション。その鏃には特殊鉱石の皇恒石が使われていて、打ち抜かれた箇所からどんどんと熱が増していく。敵軍の放った矢が少年の足を射抜き、ボロボロの衣類に穴を開けて真っ赤な染みを作ったのである。

 緊張の糸が切れたのか、少年はその場にひざまずいて倒れた。もう疲労も限界地点に達していたのだ。生きる気力も、生きようとする意志も、全て消し飛んでしまった気がした。ここまでして自分は何をしているのか、何をしたいのか、その問いかけが急に現実のものとなって、もう動くことはできなかった。

 少年も所詮は雑兵の一部だった。敵軍の重要なものを奪取し、持ち帰るという単純な任務だったが、成功したのは少年だけだった。同じ任務についた子供達は数十人いたが、皆全て目の前で死んでいった。少年はこの手に持っているものがどれほどの価値があるものなのか、数十人の幼い命を捨ててでも必要なものなのか、自分が命がけで守るほどのものなのか…。少年は急に沸きあがった血に急かされるように、その封を開いてみたい衝動に駆られた。死ぬ前に一度、何もかもに反発してみたい。課せられた使命をただ行うだけの人形ではなく、意思がある人間として、最後に思った感情。

 少年は、両手に抱えていた大事な包みを、開いた。

 それは金色に装飾された鞘に収まった、一本の刀剣。柄には一対の竜をあしらっていて、剣にしては驚くほどに軽かった。まるで見る者を魅了するかのような不思議な魅力を持つその剣を、少年は抜いてみようと思った。しかしそれは危険な賭けで、もし何かしらの呪いがかけられていたら自身の身が危ないかもしれない。手を出すことを躊躇させられる。

 しかし…もう死ぬつもりで少年は立ち止まっているのだ。この戦乱の中でもうすぐにでもこの地は消滅するというのに、足に矢を受けていては逃げることもできやしない。誰もこんな子供を助けようと思うわけもない。もう、生き残る道は消えたのだ。元々ない命、ここでなくなろうが何が起ころうが、もはや知ったことではない。少年は半ば自分を説得するかのように深呼吸をした。

 そして、剣を一気に引き抜く。

「おい、大丈夫か!」

 その一歩手前、力を込めるその瞬間に少年は呼び止められた。そんな気がした。しかし、そんなはずはなかった。少年に声をかけるほど暇な人間はこの地には誰一人としていないのだ。

 だが、

「聞こえてないのか!? もうすぐこの地域は呪令術によって消滅する、さぁ、お前もとっとと逃げるんだ!」

 声は確かに聞こえた。少年はかすんだ瞳で声の方向を見やる。おぼろげに馬に乗った騎士の姿が見えた。その騎士は必至に少年に声をかけているような気がする。少年はふらふらと立ち上がり、死体の山の上ではかなげに、笑った。

「お前、そうか…粉塵と戦火、おまけに油まで浴びたな…目をやられてるのか、視界がはっきりしないだろう。安心しろ、俺は味方だ」

「み…かた……」

 少年はもうずっと使っていなかった気のする声を、出した。

「…足を射られていたのか、それでは走れないな…。よし、俺の背に乗れ、お前一人くらいなら運ぶことができる」

 少年は、もうそれ以降の記憶を持ち合わせていなかった。ただ、熱い左足と、右手で掴んだままの宝飾の刀剣。そして、はためくマントに青い国旗を背負った聖騎士の証…この国で最も正義感に溢れ、強い力と呪令術に長けた救世主、唯一騎士。その大きな背中…それが、少年が最後に見たものだった。

 

 男爵、ビブリオンの放った呪令術により、紛戦地域は文字通り完全消滅した。焼き払われたとか、そんな生易しいものではなく…その土地にあった全ての動植物が、そして死に絶えた甲冑の残骸までもが『消えた』。後に残ったのは敵軍の拠点が数個、勘の働いた敵の騎士が数人。自軍の中等兵以上は全てキャンプ側に終結しており、戦況はまるでバランスの取れていた天秤をひっくり返したかのように崩れた。

 

 暗がりの中、雨の降り続いた城内の最上層、その一番奥の玉座の間。王座に座っているものの…国王にしては随分とやつれ、身なりも程ほどに足を投げ出す男が一人。そしてその国王らしき男の眼前に膝をつき、額から汗を流す側近らしき男も、また一人。巨大な王城の玉座の間に二人しか人間がいないというのも、また奇妙なものだった。

「王」

「…なんだ?」

「今回の戦争は、少々反感を買いすぎています」

 側近風の男はおずおずと、王の顔色を伺って言葉を上げた。

「……ほう、誰にだ?」

「国民です! 今回の戦争では戦うことに不慣れな、ただの農夫までもが雑兵として戦に駆り出されていました…その家族から、直接的ではないにせよ攻撃を受けています」

「そうか」

「そうか、などと言っていられる場合ではありません! このままでは治安の悪化や国家不信に繋がる恐れも…!」

「では、その騒いでいる雑兵の家族とやらを国家反逆でもなんでもいい、適当に理由をつけて殺しておけ」

「は…? 王、今何と仰られましたか……?」

「殺せ、と申した。騒ぎが収まるまで日に三人殺せ、十も日を数えれば皆が黙るだろう」

 その場の空気に緊張が走る。

「王、しかしそれではあんまりなのでは…?」

「お前もだ」

「え、な、…何がでしょうか?」

「お前も処刑台に並べ。つまらぬ小言を聞かせた罰だ」

「ひ、ひぃっ……お、王! ま…まさかそんな…、冗談が過ぎます!」

「断るのか? ならばお前の娘にもここに来てもらうとしようか」

 側近らしき男は、ゴクリと唾を飲み込んだ。

「お前の娘は、少々学が足りないが…顔と身体は十分に美しい。娼婦にすれば幾分か小遣いが増える」

「そ、そんな…!」

「では、立て。内部からお前のようなくだらぬ偽善に取り付かれた人間が出てきてもらってはいささか困るのだ。光栄に思え、お前は役に立つ」

「く、……王よ…娘に、娘にだけは手を出さぬと誓いを!」

「構わんよ。これから死に行く男の頼みだ、聞いてやるとも」

 王と呼ばれた男は、最後の慈悲とばかりに笑った。汚く、薄汚れた、気味の悪い笑顔で…ニタリ、と。

 

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