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 序章 生き残る火種

 

 また一つ、怒りとも悲しみとも取れぬ叫び声が上がった。目の前の道を塞ぐように、それは意思を失った傀儡人形として倒れた。胸に突き立った金色の矢羽根は、打ち倒されたのが敵軍の兵士であるということを物語っている。しかしそれはただの憶測でしかあらず、もしかしたら味方の弓兵を敵軍の兵士が殺した上で弓矢を強奪されたという可能性も捨てきれない。そして目の前で倒れているのが敵軍なのか自軍なのか、汗と油と涙でグシャグシャにかすんだ視界では、やはり判別は難しい。

「っ、ぉぐ…ぐぅぉああッ」

 また一人、甲冑の隙間を狙われた哀れな兵士が首から金色のアクセサリーを光らせて血の混ざった叫び声を上げる。それはまるで何かの芸術のよう。罪もないはずの人は次々と倒れて行ったし、人を殺した者が次に殺される者となり、そしてそいつを殺した者が次の標的となるこの空間は、まるで何かの楽しいお遊戯をしているような気分にさせる。…遊戯、そうこれはただのゲーム。駒を使って、欲しいものを手に入れるまで、手駒が全て肉塊と化すまで続けられるとても楽しいゲーム。

 血が降り注ぎ、倒れた肉が土となり、怨念のみが残るこのゲームで得をするのは勝者のただ一人。勝者は巨大なイスに座り、静かに戦乱を見据えているだけだ。

 この戦いにルールというものは存在していない。ただ、目の前の人間を斬り、斬られ、討ち、討たれる。躊躇など微塵もない本当の恐怖の中で…迷えば殺される、手を出さなければ殺される。そんな混乱の中で無数の人々は戦い続けている。互いの顔も名前も年も知らぬまま、理由もなく殺す。それが美学で、できない人間は真っ先に死んでいくから。

 ごぷ…、と、まるで腐り切った掃き溜めの中から聞こえてくるような不快な音に、耳を閉じたくなるような衝動に駆られた。それは先ほど討たれたばかりの甲冑。顔もわからず、年も名前もわからず、死んでいくだけの敵兵。興味はない。もう見慣れたものだ、と自嘲するかのように笑おうとした。が、恐怖でずっと引きつっていたのでさっきからずっと笑っているような表情だったらしい。笑うことは諦め、疲れ果てた体にムチを打って再び走り出そうと、『少年』は立ち上がる。

 両手には頑丈に包まれた細長い何か。少年はそれを何より大事そうに抱えて、怒号と絶叫と剣戟と死の飛び交う戦場を抜けようと、足を一歩前に進めた。

 グチュリ、右足が僅かに沈み込む。それはとても不快だったが、死体が降り注いでくる不快さに比べれば屁ほどの嫌悪もなかった。しかし…ただでさえ前々夜から降り続いた雨で足場は潰れているというのに、数えられないほどの死体と無数にできた血溜まりのおかげで走ることは困難だった。少年はその幼く小さな体を活かして隙間隙間を探し、確実に戦乱の渦から抜け出そうとあがく。

 足がもつれようと、息が絶えようと、視界が眩もうと、ただ駆け抜けた。決して狭くはない戦乱のフィールドを少年は生にしがみついて駆け抜けた。一瞬でも気を抜けば敵軍に殺されるかもしれない、自軍の攻撃の巻き添えになるかもしれない、そんな恐怖で体中は震えていた。甲冑の兵の白兵戦の間を抜け、馬に騎乗した騎士たちのランスに貫かれそうになり、矢や爆撃の渦からすんでのところで抜け出す。時には倒れている死人の傍らに隠れ、それを矢面に立たせて逃げ延びる。少年は休むことなく、自軍のテリトリーまで駆け抜けた。

 辺りでは絶えず剣戟と、爆音が響き渡っている。もうこの無益な戦いが始まってから一体どれほどの時間が経過したというのか…生きている人間より死んでいる人間の数の方が多くなった頃、突如としてそれは起こった。

 それは存外にも静かに、しかし怒号や絶叫の中で確かにはっきりと聞こえた。

 まるで小さな風船が割れたかのような、不思議なほど気味のよい音が聞こえた。少年はそれの存在を知っていたので反射的に赤黒い空を見上げた。…死に行く人の血で穢れた空に、一条の光を見出すことができた。それはまばゆく光り輝いて、そして奇妙なほど鮮やかな緑色へと変化していった。

 少年はこの戦場に連れてこられるまでの馬車の中で、その意味を漏れ聞いていた。本来なら恐らく聞かされることのなかった極秘情報のはずだろう…これは『作戦が最終段階』に入った証なのだから。

「…っ!」

 立ち止まる余裕もなく、少年は再び駆け出した。もっと早く、もっと早く、そうでなければ…そうでなければ間違いなく死ぬことになる。

 

『もうどれくらいになる?』

 少年が薄汚い毛布に包まっている中、見張りの兵士がもう片方の兵士に問いかけていた。

『昨夜の晩に奇襲をかけたからな、そろそろ五時間ってところか』

『伝令の様子では戦況は五分とのことらしいが…』

『なに言ってんだ、こっちには爵位級が全員戦に出てるんだぞ…なにが間違っても負けることはないさ』

 揺れ動く馬車の中で、なぜか二人の声は鮮明に聞こえた。少年は眠いのを堪えて二人の会話を逃すことなく全て聞こうと努力する。

『それに…何と言っても例の作戦だ』

『さすがにあれはやりすぎだと思うが……どうなんだろうか』

 二人の声に怯えの色が混じるのが感じられた。何か口に出すのを躊躇われるような、そんな雰囲気だった。

『明けの刻、紛戦地域の完全消滅…最近男爵になられたビブリオン様が二時間の呪令術詠唱をされるそうだ。戦場は跡形もなく吹っ飛ぶだろうな……』

 少年は我が耳を疑った。紛戦地域の完全消滅…、それは確かにはっきりと少年の耳に届いた。

『しかし、そんなことをしては自軍の兵たちも全て死ぬことになるのではないか?』

『そこなんだが…俺達がこの情報を知っているように、中等兵以上には回避方法が知らされているんだ』

『回避方法?』

『まず、ビブリオン様の詠唱が終わる直前に、空に光り輝く花火が撃ち上がる。それはなんと呪令術の特別製でな…この作戦を知っているものにしか見えない花火で、この花火を皮切りにして中等兵以上の兵達は自軍キャンプまで速やかに撤退…というわけだ』

『おい…それじゃあ、下等兵や雑兵、それに傭兵達はどうなるんだ?』

『こちら側の戦力が一気にキャンプへ戻ったら、敵軍に怪しまれる可能性がある。多少の囮役は必要、ってことなんだろう…』

 少年は思わず驚きの声を上げそうになっていた。今の国王の手腕には酷評がつき物だとは前々から噂にはなっていたが…まさか自軍の兵を数百人も残したまま戦場を殲滅するなどと、そのような凶行に出るほどの腐った人間だったのだろうか。

 少年は恐怖に震えながらも、それ以上意識を保っているのは不可能だった。まるで深海に沈んでいくかのように眠りの底へ落ちていく…そして気付けば兵士に起こされていた。

 

 周囲を見るとそれは確かに異様な光景だった。甲冑の質で下等兵、中等兵、上等兵の区別はつく。そしてそれは推して知るべしなのだが、中等兵以上の皆が面白いように、甲冑の首を上げて花火を苦渋の表情で見上げている。そしてをそれをしていないのは下等兵と雑兵、そして傭兵達なのだ。そして花火を見上げていた兵士達は、気付かれぬように一人また一人と戦場から姿をくらまし、消えていった。

 少年もそこで立ち止まっている余裕などなく、安全なエリアまで生き延びるために足を動かし始めた。

 その時点で戦いは一気に敵軍が押し始める。主力の兵達がいっせいに敵に背を向けたとあれば、さすがに下等兵たちだけでは持ちこたえることはできない。困惑しきった下等兵たちはまるで何かに憑り付かれたかのように剣を振るっていた。

 少年はいつの間にか山のように幾重にも重なった自軍の兵士を踏みつけ、そして乗り越えた。ちょっとした丘になりつつある肉と鉄の山を制覇したところで、自軍のキャンプが見え始める。そこではきっと呪令術を使う人間が、この戦場を焼き払おうとしているに違いなかった。少年は急に何か右胸の少し下辺りに強い疼きを感じ、一瞬の眩暈に襲われてその場に倒れこむ。

 鮮血が、見えた。

 自身の体から流れ出る赤き生命の名残に、不快な嘔吐感と奇妙な快活感が生まれる。気持ちの高揚が生まれ、人をこの手で殺してやりたいと、思考がそういう方向に働いていく。

「う…、ッ…くぁぁ」

 緑色と、赤色のグラデーション。その鏃には特殊鉱石の皇恒石が使われていて、打ち抜かれた箇所からどんどんと熱が増していく。敵軍の放った矢が少年の足を射抜き、ボロボロの衣類に穴を開けて真っ赤な染みを作ったのである。

 緊張の糸が切れたのか、少年はその場にひざまずいて倒れた。もう疲労も限界地点に達していたのだ。生きる気力も、生きようとする意志も、全て消し飛んでしまった気がした。ここまでして自分は何をしているのか、何をしたいのか、その問いかけが急に現実のものとなって、もう動くことはできなかった。

 少年も所詮は雑兵の一部だった。敵軍の重要なものを奪取し、持ち帰るという単純な任務だったが、成功したのは少年だけだった。同じ任務についた子供達は数十人いたが、皆全て目の前で死んでいった。少年はこの手に持っているものがどれほどの価値があるものなのか、数十人の幼い命を捨ててでも必要なものなのか、自分が命がけで守るほどのものなのか…。少年は急に沸きあがった血に急かされるように、その封を開いてみたい衝動に駆られた。死ぬ前に一度、何もかもに反発してみたい。課せられた使命をただ行うだけの人形ではなく、意思がある人間として、最後に思った感情。

 少年は、両手に抱えていた大事な包みを、開いた。

 それは金色に装飾された鞘に収まった、一本の刀剣。柄には一対の竜をあしらっていて、剣にしては驚くほどに軽かった。まるで見る者を魅了するかのような不思議な魅力を持つその剣を、少年は抜いてみようと思った。しかしそれは危険な賭けで、もし何かしらの呪いがかけられていたら自身の身が危ないかもしれない。手を出すことを躊躇させられる。

 しかし…もう死ぬつもりで少年は立ち止まっているのだ。この戦乱の中でもうすぐにでもこの地は消滅するというのに、足に矢を受けていては逃げることもできやしない。誰もこんな子供を助けようと思うわけもない。もう、生き残る道は消えたのだ。元々ない命、ここでなくなろうが何が起ころうが、もはや知ったことではない。少年は半ば自分を説得するかのように深呼吸をした。

 そして、剣を一気に引き抜く。

「おい、大丈夫か!」

 その一歩手前、力を込めるその瞬間に少年は呼び止められた。そんな気がした。しかし、そんなはずはなかった。少年に声をかけるほど暇な人間はこの地には誰一人としていないのだ。

 だが、

「聞こえてないのか!? もうすぐこの地域は呪令術によって消滅する、さぁ、お前もとっとと逃げるんだ!」

 声は確かに聞こえた。少年はかすんだ瞳で声の方向を見やる。おぼろげに馬に乗った騎士の姿が見えた。その騎士は必至に少年に声をかけているような気がする。少年はふらふらと立ち上がり、死体の山の上ではかなげに、笑った。

「お前、そうか…粉塵と戦火、おまけに油まで浴びたな…目をやられてるのか、視界がはっきりしないだろう。安心しろ、俺は味方だ」

「み…かた……」

 少年はもうずっと使っていなかった気のする声を、出した。

「…足を射られていたのか、それでは走れないな…。よし、俺の背に乗れ、お前一人くらいなら運ぶことができる」

 少年は、もうそれ以降の記憶を持ち合わせていなかった。ただ、熱い左足と、右手で掴んだままの宝飾の刀剣。そして、はためくマントに青い国旗を背負った聖騎士の証…この国で最も正義感に溢れ、強い力と呪令術に長けた救世主、唯一騎士。その大きな背中…それが、少年が最後に見たものだった。

 

 男爵、ビブリオンの放った呪令術により、紛戦地域は文字通り完全消滅した。焼き払われたとか、そんな生易しいものではなく…その土地にあった全ての動植物が、そして死に絶えた甲冑の残骸までもが『消えた』。後に残ったのは敵軍の拠点が数個、勘の働いた敵の騎士が数人。自軍の中等兵以上は全てキャンプ側に終結しており、戦況はまるでバランスの取れていた天秤をひっくり返したかのように崩れた。

 

 暗がりの中、雨の降り続いた城内の最上層、その一番奥の玉座の間。王座に座っているものの…国王にしては随分とやつれ、身なりも程ほどに足を投げ出す男が一人。そしてその国王らしき男の眼前に膝をつき、額から汗を流す側近らしき男も、また一人。巨大な王城の玉座の間に二人しか人間がいないというのも、また奇妙なものだった。

「王」

「…なんだ?」

「今回の戦争は、少々反感を買いすぎています」

 側近風の男はおずおずと、王の顔色を伺って言葉を上げた。

「……ほう、誰にだ?」

「国民です! 今回の戦争では戦うことに不慣れな、ただの農夫までもが雑兵として戦に駆り出されていました…その家族から、直接的ではないにせよ攻撃を受けています」

「そうか」

「そうか、などと言っていられる場合ではありません! このままでは治安の悪化や国家不信に繋がる恐れも…!」

「では、その騒いでいる雑兵の家族とやらを国家反逆でもなんでもいい、適当に理由をつけて殺しておけ」

「は…? 王、今何と仰られましたか……?」

「殺せ、と申した。騒ぎが収まるまで日に三人殺せ、十も日を数えれば皆が黙るだろう」

 その場の空気に緊張が走る。

「王、しかしそれではあんまりなのでは…?」

「お前もだ」

「え、な、…何がでしょうか?」

「お前も処刑台に並べ。つまらぬ小言を聞かせた罰だ」

「ひ、ひぃっ……お、王! ま…まさかそんな…、冗談が過ぎます!」

「断るのか? ならばお前の娘にもここに来てもらうとしようか」

 側近らしき男は、ゴクリと唾を飲み込んだ。

「お前の娘は、少々学が足りないが…顔と身体は十分に美しい。娼婦にすれば幾分か小遣いが増える」

「そ、そんな…!」

「では、立て。内部からお前のようなくだらぬ偽善に取り付かれた人間が出てきてもらってはいささか困るのだ。光栄に思え、お前は役に立つ」

「く、……王よ…娘に、娘にだけは手を出さぬと誓いを!」

「構わんよ。これから死に行く男の頼みだ、聞いてやるとも」

 王と呼ばれた男は、最後の慈悲とばかりに笑った。薄汚れた、気味の悪い笑顔で…ニタリ、と。

 

  

 ただしいこと -Knightly Prime-Priority-

 

 

 

 

 第一章 ただ青く、ただ強く、そしてただ生きる

 ――五爵位 二准士 唯一騎士

 

 

 

 数十名の若者達の視線を浴びて、その幼い少女は緊張しきっていた。なぜなら相手はまるまる片手の指の数だけ年上なのだ、それなのに自分は教える側に立つだなんて…。幼い少女は教壇から顔を出すことができないので、その傍に小さな小さなテーブルを置いて立っていた。それがかなり滑稽な姿で、クラスにいる数十名の生徒達は今にも噴出さんばかりにクスクス笑いをしている。少女はそのクスクス笑いに更に萎縮し、緊張して竦み上がってしまう。

「せんせー、授業は始まらないんですかー?」

 ドッ、と軽い笑いが生まれた。調子のいい生徒が一人、子供をからかっているだけなのだが、それがまた少女にとっては今すぐに消えてなくなってしまいたくなるほどの羞恥なのだ。教師と呼ばれ、しかし実力が伴わないために…いや実力は十分にあるのだが、如何せん相手が怖い。怖いといっても何も苛めて来るわけではないのだが…幼き者にとって自分よりも年上の人というのは無条件に萎縮してしまう存在なのだ。少女の頭が良くて、そして世間を知っているからこそそれは余計にのしかかってくる。

 はじめての授業…失敗。そんな言葉が少女の脳裏によぎり、思わず涙が目尻に浮かび出す。しかし生徒の誰もがそれに気付くことはない。

「………はぁ」

 空気を読まない誰かのため息に、ビクリ、と少女の肩が震える。涙も引っ込んで、両拳が握られた

 …こんなことでは、いけないのだ。今日は大事な日だったじゃないか。ここで失敗することは許されないはずじゃなかったか? 昨夜、眠いのを我慢してあれほど段取りをしたのを忘れたのか? そう、まずは心を落ち着かせるのだ。

「すぅ…はぁ…」

 肝心なのはここから。今までの失態は取り戻せばいいだけ。そうしたら次は教科書を手にして、

「みっ、み…! みなさん、教科書の目次を開いてください!」

 少しの間、生徒達からアクションが消えた。少女はまた失敗してしまったのだろうか、という考えばかりが先行して前を見れなくなった。だが、誰か一人が言われたとおりに教科書を開くと、それに習ってぞろぞろと皆が指定の教科書を開き始める。ぱぁっ、と少女の顔が明るくなった。

「そ、それでは、本日の授業を始めます。去年まで技術Aの担当をしていた先生が引退なされたので、今日から技術Aを担当することになった…」

 ちらり、と少女は教室の中にいる一人の生徒に視線を送る。その生徒は頷くと、にっこりと笑って小さく手を振った。

「パンツァー・B・ドルネットです。あ、あの、みんな仲良くしてくださいね…」

 少女はおずおずと不慣れな初授業を開始した。一つの挙動に三秒を費やし、それに生徒の誰かが反応するまで最大で五秒待つ。そんな臆病であんまり進むことのない授業だったが、彼女にとっては及第点というところだった。

 そんな少女を、からかい甲斐のある新米先生として見る数十の視線の中の一つに、それとは奇妙に異なった見方をしている視線があった。彼女が先ほど小さく助けを求めた、端正な顔つきの少年である。少年は少女の授業に耳を傾け、時に笑い、時に悩みながら、そして時間は過ぎていくのである。

 

 

 放課後、授業の終わった教室からぞろぞろと生徒が出て行く流れに逆らって、少年は席に着いたままだった。生真面目にシルクの青いネクタイを首から下げ、パリッとノリの利いたドレスシャツと、青と黒のグラデーションの美しい特待生用の上着。ネクタイには一対の竜を模した金色のネクタイピン、袖口には宝飾された刀剣のカフスボタン。何処からどう見ても貴族の家の子供なのは間違えようがなかった。

「ど、どうだったかな? なんだかすっごく緊張しちゃったよ」

 先ほどまで教壇に立っていたパンツァーは、てとてとと軽い調子で小走りに少年の傍に駆け寄ってきた。

「よかったよ。大事なポイントは抑えられていたし、初日の授業にしてはいい調子」

 落ち着いた素振りで少年がにこりと微笑みかけると、少女は笑顔を増した。

「フェイトくん、先生って授業が終わったらどうしたらいいのかな? そのまま帰ってもいいの?」

「…僕は先生じゃないからちょっとわからないな」

 少年の名前は、フェイト。フェイトは丁寧に言葉を選んで、自分よりも五つほど年齢が低いはずの少女に優しく語りかける。

「先生のことなら、先生に聞けばいいと思うよ。…ほら、ちょうどロゼッタが出てきた」

 フェイトが廊下のほうを見るように右手で促す。時を同じくして隣のクラスの授業が終わったのか、呪令術を担当していたロゼッタの姿を捉えることができた。ロゼッタはパンツァーと比べると大分年齢が離れていたが、それでも若い先生として扱われる、十代後半の教師だ。

「ロゼッタに聞けばいいよ。君は今日が初めての授業なんだから、この後何かあるかもしれないし…」

「う、うん…でも、ロゼッタ先生か…、ちょっと話しかけるの緊張しちゃうな…」

「………?」

「…………」

「…なるほど、ついて来いと」

 フェイトが急いで帰りの支度を終えると、待っていたかのようにパンツァーは駆け出した。置いて行かれないようにフェイトも同じように歩みを揃える。一見すると背丈も小さく、見たままに幼い彼女であったが…その血筋は代々王家のお抱え技術士として名を轟かせたドルネット家。パンツァーはそのドルネット家の末裔…代々続いたといわれるドルネット家の技術工の中でもその血を色濃く受け継いだ実力派なのである。

 それゆえ、パンツァーの祖父が去年まで勤めていた授業を代行者として執り行うことになったのである。パンツァーの祖父…アルメッド氏は城内技師として三十年ほど現役で功績を残し続け、その後パンツァーの父でもあるレパイル氏がその後を継いで城内技師となり、アルメッド氏はこのアカデミーの技術教師として招かれることになった。…しかしこれは去年までの話だ。

 今年に入る頃から、どうにもアルメッド氏は寄る年波に勝つことができず…腰を壊してしまったらしい。今では居た堪れないことに、四六時中看護のついて回る入院生活となってしまったのである。自由が何より大好きだったアルメッド氏にとって、最も辛い仕打ちとなったことだろう。

 フェイトはいくらかお世話になっているアルメッド氏のことを思い、少々のため息をついた。一日も早く良くなって欲しいものである。

「あ、あの、ロゼッタ先生!」

「…あら、こんにちは。初日の授業はどうだったかしら? ね、新米先生」

 ようやくもって追い付くと、ロゼッタはにこりと笑ってパンツァーに訊ねた。それからちらりとフェイトを見ると、フフ…、と小さく微笑を作る。

「はい、ナントカ…って感じですけど、うまく行ったと思います! おじいちゃんみたいにすぐにはできないかもしれないけど…、こ、これから頑張るのでよろしくお願いします!」

「うん、よろしくね。アルメッド先生は多分に優秀な技術工であらせられる上に、授業プランや若手の人材育成の能力にも長けていらした方ですから……そんなに気を張らずに、ぼちぼち頑張っていけばいいと思うわよ」

 『は、はい! 頑張ります!』などとパンツァーは答えていたが、やはり子供である、ロゼッタの言葉の真意を掴み損ねている。フェイトはその言葉の裏を取った。ロゼッタはそのまま、アルメッド氏は才に長けていたもの凄い人だから、その代わりを務めるなんてまだ無理な話。適度にやっていけ、と言っているのである。しかしやる気を出して意気込んでいるパンツァーの鼻を折るような真似をする必要はないだろう。いい意味に捉えているのだから、放っておいてやればいい。

「ところで、わたしに何か用でもあったかしら?」

「あ、そ、そうなんですよ、あのですね…授業が終わったら、先生はどこかに行くものなんですか? その辺りの勝手がちょっとわからなくて、フェイトくん…あ、いえ、"アトロポス"君に訊ねたら、やはり先生のことは先生に訊ねたほうがいいと助言を貰ったもので…」

 新鮮な呼ばれ方をして、フェイト・アトロポスは背中がむずがゆくなった。特別仲の良いパンツァーから数年ぶりに苗字で呼ばれるということに、どことなく所在がなくて手持ち無沙汰な感じになってしまう。しかしそんなことはお構いなく、会話は進んでいくようだった。

「どうなのかしら…アカデミーはその辺にある学校と違って基本的に授業は教師に任せきりだし、定時朝会にさえ出てれば重要事項は聞き逃すことはないだろうし…んー、教員室に顔を出したら帰ってもいいんじゃないかしら?」

「そうなんですか? わたしはてっきり、このあと何かお勉強をしなくちゃいけないのかとばかり……」

「そうねぇ…自主鍛錬は大事なことだけど、アカデミーに居残ってやることではないはね。もしアカデミー内部の機材、教材、サンプル、資料なんかを使いたいなら事務の方に言えば貸し出してくれると思うわ」

「あ、…はい。事務さんですね、ありがとうございます!」

 二人はまるで姉妹か何かのように仲良く話していた。パンツァーは緊張はしているものの、どうやら相性は悪くないらしい。フェイトは安心してほっと胸をなでおろした。

「そ、それじゃあわたし、職員室のほうに行ってきますね! ロゼッタ先生、どうもりがとうございました。……フェイトくん、またあとでね!」

 元気に手を振って廊下を駆けて行く姿は、やはりまだまだ子供のままだった。出会ったのが三年ほど前になるが、その頃からちっとも変わっていない、とフェイトは少しクスリと笑った。

「ねえ、アトロポス君」

 少し俯き加減だった顔を上げると、ロゼッタが顔色を少しだけ変化させてにっこりと微笑んでいた。

「先生、少しアトロポス君とオハナシしたいんだけど、いいかしら?」

 うふ、と実に友好的に語りかけてくるロゼッタだが、アトロポス…フェイトはそれをあっさりと遮った。

「やめてくださいよ、ロゼッタ。君…レディに向かって言うのは憚られますけど、今の君は少し気色が悪い」

「あら、"こっち"では正体を隠さなきゃいけないだからしょうがないでしょう? お互いにね」

 先程までの優しいお姉さんのような雰囲気はどこへやら、そこに残ったのは少しばかり妖艶に笑みを作る魔性だった。ロゼッタが雰囲気を変えるだけで、その場の空気の匂いまでもが変わる。それほどまでに存在感のあるロゼッタはしかし、笑顔になると無言のままフェイトを導いた。どうやら空いた教室に来い、とのことらしい。フェイトはそれに乗り、ロゼッタの後ろについて授業の終わって生徒のいなくなった教室に入った。

 

 窓の外は夕暮れで、巨大で雄大なパトリオット城がひときわ強い存在感の元で尊大に聳え立っていた。時間的にもそろそろ校内から生徒の影が少なくなり始める頃である。少数精鋭、未来のエリートを育てるため、アカデミーには普通の学校にあるような部活動や文化活動が一切ない。その代わりにきっちりとしたメニューをこなし、このアカデミーを見事卒業したものは必ずと言ってよいほど、城内で国王のために働くことができるのである。それは名実ともにエリートの証拠で、アカデミー生徒は日夜そのために血反吐を吐いてがんばっているのである。

 と、言うのは昔の話で、今ではあまり城内で働くことに対しての価値意識が働かなくなってしまっている。それぞれ専門職に就きたい者が、そのために専門的な勉強をする場が今のアカデミーであり、エリート思考というものは何年も昔から廃れてしまっている。とはいえアカデミーで学ぶことは誰にでもできるわけではなく、それ相応の家柄や入学金も必要になってくるので、全体的に生徒に貴族出が多いのは至極当然のことであろう。

 本日最後の終了チャイムが鳴り響き、それを合図にしたかのようにロゼッタは静かに語り出した。

「今夜、臨時集会が開かれるわ」

「…また、急ですね。もしかして危ないこと?」

「危なかろうが、そうじゃなかろうが…お姫様が『来い』って言ってるんだから、行くだけ」

「彼女が? それじゃあ、もしかして今日の集会は……」

 二人は、まるで数年来の付き合いがあるかのように話していた。年齢がいくつか下のはずのフェイトは、それを感じさせないほどロゼッタと親密な雰囲気を出している。

「フェイト君、最近城の方に顔を出してないわね。城内騎士として減点よ?」

「仕方ないでしょうが…。最近はアルメッド氏の後任探しで城下を駆け回っていたし、やれ見つかったと思ったらまさかパンツァーだったなんて」

「彼女には気の毒な話よね。いくら実力があっても、まだ子供…生徒としてアカデミーにいてもおかしくはないというのに」

 ロゼッタが夕陽を背景にして、髪を掻き揚げる仕草をする。美しい光沢の長髪を持て余す彼女の癖のようなものだ、とフェイトは解釈している。

「城内騎士なら、いっそのことあそこに住まない?」

 ロゼッタは窓から見えるパトリオット城……権力と尊厳を兼ね合わせ、大国を束ねる力を持ったそれを促した。

「四六時中彼女に拘束されるだなんて、まさか…身が持ちませんよ」

「あらら、そんなことお姫様が聞いたらきっと泣いちゃうわ」

「……彼女が泣いているところなんて想像もつきませんよ」

「あら、でもあの子、フェイト君のこととっても大好きみたいだから…好きな子に嫌がられると、乙女は悲しくなっちゃうものよ」

 フェイトは悩みの種だ、とばかりに頭を抱え込んだ。しかしロゼッタはそんなフェイトの姿を見て微笑んでいたし、こうしてからかうのが楽しい、と言っているのは容易に表情から読み取ることができた。

「僕は、ただの便利な忠犬としか見られていないような気もするんですが」

 ロゼッタはしばらく思案するように表情を崩したが、すぐに元の整った美しい顔にして、

「…ま、そうかもね」

 と、フェイトに追い討ちをかけた。

 

 

 忠犬ことフェイトはアカデミーの制服から少年には似つかわしくない衣へと着替えていた。それは正しい場でのみ使われる本当の『正装』。袖や裾に十分以上のゆとりを持つ黒衣と、その下に着込まれた頑丈な鎖帷子。それは悲しいかな、フェイトが普通の学業に専念する少年でないことを物語るに足りるものだった。

 首から背を覆っているのは国家を背負うものにしか与えられない、青地に双子の竜…パトリオットの国旗を刺繍されたマントである。それは、この国でもっとも強く、もっとも気高く、もっとも忠実な証。

 黒衣の胸元につけられた三つの星型。色彩は限りなく暗黒、鈍く光る黒鉄は将官を証明するモノ。

「……しかしまぁ、ここはいつ来ても…ううん。圧倒されるなぁ」

 荘厳な内装に目を引かれ、そしてその次にその空間が一体何を意味するのかを知る。黄金の柱と、白く広大な部屋。この部屋に人を入れたら一体何人まで入るだろうか…。フェイトは暇な時間を弄ぶかのようにちょっとした考えをめぐらせた。

 国王が住み、大臣が住み、選ばれたエリート中のエリート達が暮らすこのパトリオット城。この国の中心にあり、そしてこの国で最も権威があり、この国になくてはならない…いや、城と言うものはどこの国でもこれに当てはまるだろう。どこか特別視するのだとすれば、他とは比べ物にならない威圧…と言うべき物がこの城の中には充満しているという点である。

 それは前国王が、まさに狂気の王と呼ぶに相応しき人物であったことが影響する。

 パトリオットという国には、元々兵力も領土もそれほどあったわけではない。それこそ百年前のパトリオットなど、見るも無残な荒廃国であった。それに変化を齎したのが今から四代前の国王である。四代前の国王は改革的な思考の持ち主で、更に強欲で知能面に置いても秀でていたらしい。若くして王権を手に入れた国王は隣接する国を奇策で落としていき、僅か一代でパトリオットの領土は十倍ほどにも膨れ上がったという。

 その四代前の国王は自身の寿命を知ると王権を我が子に預け、自身の功績を永遠に謳い続けるように国の詩人に言い聞かせて眠りに落ちた。それが今から六十年ほど前のことだ。この頃からパトリオットは他国より恐れられる立場にあったとも言える。

 パトリオットの改進に躊躇や留まりはなかった。常に国は動き続け、兵力も増え続ける。領土は既に周辺国では最大になっていたし、国民の生活も比べることができないほど潤うことになった。国王が代わってもその力は衰えることなく、この頃はまさにパトリオットにおいて黄金時代と呼ぶに相応しかった。

 そして暗黒時代は訪れる。今から二十年前、原因不明の奇病で命を落とした先々代の国王に取って代わり、先代の国王がパトリオットの頂点に座ることになった。前国王はこれまでのパトリオットの動きと違わず、武力という名の暴力で他を屈服させ、自身の地位と国力を際限なく上げ続けた。しかしそれは今までよりも過激なものだった。王が支配したのは他国だけではなく自国もその中に含まれていたのだった。

 国民を恐怖と不安の中に落とし、王に少しでも意見するものがいれば例えそれが身内であっても…自身と血の繋がった王族でさえ処刑したという。そうすることにより国民に首輪をかけ、鎖を繋いだのである。結果としてパトリオットには悪評が付きまとうことになり、同盟国は後を絶たず離反して行った。しかしそれを王が許すはずもなく、同盟を解除した国は次々とパトリオットの領地になったのである。

 王の支配は城内にも蔓延っていたのである。それが…今も残っている。当然そのような恐怖政治が長続きするはずもなく、国に属していたはずのとある騎士が王の遠征中に闇討ちを施した、という噂が実しやかに国中で広まっている。

 しかしそれはパトリオットの改進を阻むことを意味していた。前国王は自身の保身と上述した通りの理由から、ほとんどの王族を処刑していたのである。残ったのは国王の娘、フィリア姫だった。他に手段はなく、大臣達は国の力が劇的に低下することを甘んじて飲み込んだ。現王誕生である。当時僅か五歳であった。

「……ふう」

 フェイトはそこで歴史の授業の反復を終える。さすがに幾度となく叩き込まれた歴史である、間違うことはない。

 フェイトはそれからその大広間に一体どれだけの人数が入ることができるのかという暇潰しをもう一度することにした。ここは城内で最も大きな広間である。天井は高く、機があればこの広間でイベントを行うこともある。確か前回のイベントは国を上げての格闘大会だった。腕に自信のある国民が城内の上級兵士達と戦い、勝てば賞金がもらえるというものだ。フェイトもそれに参加したいと思ったが、上司に止められたので渋々我慢したことを思い出した。

 フェイトは思考を元に戻す。一体どれだけの人数が入る? そうだな、そのイベントのときは確か参加者だけで五百名を超えていたはず。見物客や城内の人間を入れても、ざっと千人はいただろう…それでもまだまだ余裕があった。詰め込めば二千人ほど入るだろうか…?

 そんな結論が出たところで、フェイトの背後から近づく気配があった。フェイトは反射的に帯剣に手を伸ばす。…が、ここが城内だということを思い出してそれをやめた。

 フェイトは振り返り、その人物が誰なのかを確かめる。相手はフェイトが腰にかけてある大剣を見て、咄嗟にこんなことを口走ったようだった。

「おっと、危うく殺さないでおくれよ」

「……あれ?」

 フェイトは表情に疑問の色を見せた。てっきり、自分の同僚だと思った。だから帯剣を解いたのだ。

「…どなたでしょう?」

 その人物は長い金髪を後ろに束ねた快活な青年だった。淀みのない碧眼がうらやましい、フェイトはそう思った。

「や、怪しい者じゃないんだ」

 怪しくない人間はそんなことを言わないが、城内にいる限りフェイトの関係者なのは間違いなかった。なのでその人物が見慣れない人でも、フェイトは礼儀正しく『騎士の挨拶』を済ませる。武器は…持っていないようだ。フェイトは無意識の内に身構えていたのに気付き、それを解く。それと同時に青年は息をつく。…フェイトに気圧されていたのだ。

 青年は懐からエメラルド色の布を取り出して額をぬぐった。

「いやぁ、君…兵士さん? 若いのにご苦労様だね。僕はアルビオレ、アルビオレ・ナルキス・ドミニオンだ」

「僕はフェイトです。フェイト・R・アトロポス。よろしくお願いします、ドミニオンさん」

「アルビオレでいいよ。その代わり僕もフェイトでいいかい?」

 ええ、とフェイトは少年らしからぬ態度で微笑む。上辺だけ取り繕って笑みを作るのにも慣れたものだ。どうやらアルビオレと名乗った青年はフェイトのことを知らないようだった。城内でちょっとした有名人であるところのフェイトを知らないとなると、直接的に城に仕えている人物でないか、もしくは研究者の可能性が高くなる。

「アルビオレさんは……どこかの技術士さんですか?」

 フェイトがそう言うと、アルビオレはまさにその通りだと言いたげにちょっとだけ驚いた素振りを見せた。

「その通りだよ。…まぁ、僕はレパイルさんの方の技術士ではなくて、ビブリオンさんの呪令術研究の技師なんだけどね」

「と、言うと博士様ですか?」

 ふっふっふ、と不敵な笑い声がやけに大きく反響した。広い部屋だから仕方がない。

「聞いて驚くなよ? 僕はビブリオンさんの一の弟子、アルビオレ准爵様なのさ」

 フェイトは、何となしに、へぇ〜、という感想を表情に出した。

「……あ、あれ、驚かないの?」

「…いえ、驚くなと言われたので」

「じゅ、准爵さまだよ!?」

「あぁ、そうですね…。うん、それは……とても凄いですね!」

 准爵といえば、機械技術と呪令技術という二つの研究施設がある中で、双方共に一番の実力がある者に与えられる階級のことだ。それ以外の研究者には『博士』という称号が与えられる。実際、そこそこの権力を持ち合わせているものの、それは研究施設内部だけに留まる。城内には准爵よりも階級の高い人間がいくらでもいるのだから、それを自慢しようというのは少しばかり恥ずかしい行為とも呼べる。ここは一つ、年下ながら城内に詳しい者として忠告を授けるべきではないだろうか。

 そこまで考えたが、フェイトは決してそんなことを口に出したりしない。フェイトの中にある悪戯心が騒ぎ出す。ここは一つ泳がせてみようじゃないか、と。

「アルビオレさんはおいくつなんですか?」

「僕かい? 僕は十九になったばかりだよ」

「へぇ! その年で准爵ですか…、よっぽどの実力者なんですね!」

「そうさ、僕は彼の有名なドミニオン家の末裔だからね!」

 フェイトは内心笑いを堪えきれるか自信が無かった。ドミニオン家の名に聞き覚えはあった。代々、実力はありながら臆病なためなかなか評価をされなかった末端の貴族のはずだ。威張れるほどの家名でないのは明らかである。それを置いても、もっと若くして准爵になった親友がいるのだ。確か八歳だっただろうか…パンツァーが准爵になったのは。

「フェイトはどこの兵士さんだい? よかったら僕の研究してる新しい呪令術を履修してみない?」

「そ…そうですねえ、僕はちょっと呪令術は苦手で……」

 フェイトは答えに詰まる。ここで自分の身分を明かしては、この茶番に幕を落とすことになってしまうと考えたからだ。

「君、もしかしてアカデミーの学生さん?」

「あ、はい、だから…呪令術の授業も少し置いて行かれてる状況で…はは」

「だったらなおさら、僕の教えを受けるべきさ!」

 アルビオレは勝手に話を進めて行くが、フェイトは口から出任せを並べて何とか場を持たせようとしている。学生なのに間違いはないが、フェイトは呪令術の点においても校内でトップクラスの成績を残していた。当然である。なぜなら呪令術を使った実戦経験があるのはフェイトくらいなものなのだから。

「そ、それよりアルビオレさん、こんなところに何の用事ですか? この広間は確か、今の時間は立ち入りできないはずですけど」

 フェイトが話の方向を別のところにやるように、全く違う話題を振ってみた。しかしそれは当初から気になっていたものでもある。この広間にはサボルドーネと呼ばれる選ばれた将官しか入れないよう、警備が敷かれているはずである。問いを受けたアルビオレはキョトンとした表情を浮かべ、それから口を開く。

「確かに外には警備の人たちがいたみたいだけど、僕がビブリオンさんに用があるって言ったら快く入れてくれたよ?」

 なんてこった。城内の警備は確かに臨戦状況でなければ曖昧なものになるが、今日は国王が直接任務を言い渡す特別な集会である。さすがに許される範囲と許されない範囲がある。そして部外者を集会会場に入れるというのは許されない範囲に入るものである。

「それが、何か?」

「…あー、アルビオレさん、ビブリオン…さんへの用って言うのは、火急のものですか?」

「いやいや、ちょっとした質問があってね。まぁ解消されないことには研究を進められないとなると、僕的には火急なんだけど」

「そうですか…すみません、実は今日はこの広間でちょっとした催しがありまして、外部の人は入れないことになってるんですよ。非は警備にあると思うんですけどね」

 そこまで言ってから、この広間に新たに増えた人の気配を感じ取る。見渡しのいい部屋なので、それが誰なのかはすぐにわかった。それはアルビオレも同様だったようで、フェイトと同じ方向に顔を向けた。

「あ、ビブリオンさん!」

 長身で長髪、遠目に見てもそれがサボルドーネ序列二位のビブリオン侯爵であるのは見紛いようがなかった。ビブリオンに向けて駆け出すアルビオレを追うように、フェイトもそれに続いた。

「……? アルビオレか」

 どうしてこんなところに? そんな感情の隠された言葉を、アルビオレではなくフェイトに発した。しかしそれに気付けたのはフェイトだけであり、アルビオレがそれを感じ取ることはできなかった。

「お疲れ様です、実はビブリオンさんに聞きたいことがあって探していました!」

 うん、と少し怪訝そうに眉をひそめるビブリオン。遠目に見てもわかるとおり、ビブリオンは長身で長髪。切れ長の瞳と常に不機嫌そうに釣りあがった眉、しかしそれは機嫌を損ねているわけではなく、気分のいいときでも同じような表情であることをフェイトは確認済みであった。鼻は高く、小顔でそれはきらびやか。眉目秀麗とは恐らくここにいるビブリオン侯爵に最も相応しい言葉であるのは疑いようがない。もうそろそろ子供が複数人いてもおかしくはない年齢なのだが、それを感じさせない若々しさとそれに反比例する厳格さはやはり、序列二位と言うだけはある。大胆不敵で名の通るフェイトでさえ頭の上がらない相手だ。

「それでですね、与えられていた研究の件で、」

「アルビオレ…後にしろ」

 ビブリオンは、多分に無口なところがある。それはビブリオンの性格そのものを表す物であり、他者と関わるのを極端に嫌う傾向にあるビブリオンの最も単純な特徴でもあった。決して機嫌を損ねているわけではないのは確かだ。

「……出て行け」

 それは『これから大事な集会があるのでこの部屋から出て行け。話は後で聞く』という意味の込められた一言である。何度も言うが決して機嫌が悪いわけではない。

 アルビオレにもそれは伝わったのか、やはりさすがに上司から直々にそう言われると食い下がることはできないようであった。少しばかり出端をくじかれて小さくなったアルビオレは、よく観察していないとわからないというくらい僅かに頭を下げて、しゅんとしてしまった。

「済みませんでした…、ビブリオンさんの用件が終わられてから、後で部屋に窺わさせてもらいます!」

 しかしすぐに気を取り直したのか、ニカッと快活に笑うと駆け足で広間を後にした。フェイトが呼びかける間もなく、今まであった騒々しさは嵐の後のように消え去っていた。

 ふう、と小さくため息をつくと、ビブリオンがフェイトを見下ろしているのに気付いた。

「何か?」

「…ウチの者が何か迷惑をかけたのではないか」

 抑揚のないセリフ。これがビブリオン侯爵に感情はないのではないか、などという突拍子もない噂が飛び交う原因でもある。フェイトはビブリオンのことはよく知っていたので、侯爵のこれが直そうと思っても直せない特殊な悪癖であることは随分と前からわかっていた。

「迷惑をかけていたら、どうなんですか?」

「…あとで叱っておかなければならない」

「叱るだけですか?」

「……フェイト、君に謝るように言わなければ。それと私からも謝罪をしなくてはならない」

 やれやれ。

「ビブリオンさんはいつも回りくどいですねー」

「う…、むぅ」

 フェイトはそれが少しおかしくなってきたのか、含んだ笑いを見せた。ビブリオンは恐らくフェイト二人分でも届かないほど、年長者である。左手に指を三本、右手に五本ほど上げるくらいだろうか…。それなのにまるでその様子は子供なのだ。冷静に見えて、致命的なほどに非社交的。言葉を二、三交わせばわかることではあるが…ビブリオンはとにかく打ち解けた会話というのが苦手なようだった。

「大丈夫ですよ。アルビオレさんはいい人みたいですし、……まぁ、多分にナルシズムを感じてしまいましたが、あの年齢で何もかも成功していると世界は自分を軸にして動いているのではないか、などと考えてしまうものです」

「…君は、アルビオレより年齢が下のはずだが」

「ははは、僕は普通の人よりちょっぴりマセてますからね。現実的過ぎるとでも言うのかもしれないですけど、同級生のように将来に夢を見るということは到底できそうにもありませんよ」

 フェイトは自嘲気味に皮肉った笑い声を上げて、頭をかいた。無口なビブリオンはそれ以上会話を続けることが困難になってきたようで、黙って小柄なフェイトを見下ろしていた。

 静かになった広間で、集会の時刻をフェイトは待つ。少しばかり早く来過ぎたのかもしれない。普段なら用が立て込んで遅刻間際になるはずだが、それが最近は何度か続いていたので、今日はなるべく早くに。そう思った結果がこれだったようだ。やけにだだっ広い空間に、フェイトとビブリオンの二人。間には奇妙な沈黙。そろそろ息苦しくなってきたかな、というところで先ほどビブリオンが開けて入ってきた扉が再び『ギギィ…』と鈍い音を響かせて動き出していた。

「やぁ、お二人さん。元気してますか?」

 声に軽薄そうな印象を受ける。フェイトが知る限りこのような嫌にクセのある喋り方をする人物は一人しかいない。

「……無論、そうでなければ来ていない」

「そうですか、それはよろしいことで!」

「…そこまで大袈裟にする話ではない」

 部屋に入ってきたのは、まず頭部に注目が行くであろう人物だった。頭に"トサカ"のある青年は、にっこりと笑いつつフェイトたちに近づいて来る。それは例えるのならばニワトリか何かだった。何かの油でもつけているのか、全ての頭髪が頭部の頂点に向けて収束しているのだ。それがかっこいいのかどうかはわからないが、目の前の青年、バーガー男爵はその髪形を甚く気に入っておられる様子だった。

「ハッハ、ハハッ! どうしたよその顔は? まるで俺様が来たことがイヤ〜なことみたいじゃないか、なぁ、ええ? フェイト君よ」

「まっさか。とんでもないですよ、むしろ大歓迎です。そう、ウェルカム。ハッハ」

「ハハッ! そうかいそうかい! イヤ〜しかし今日は突然の召集だな? 俺様は城下でデートのオヤクソクがあったのによ、うちらのお姫様は計画性ってもんがなくて困るね?」

 大股でフェイトたちの周りを落ち着きなく歩き回る異質なバーガー男爵は、からかうようにフェイトに同意を求める。

「さすがに僕はバーガーさんほどおおっぴらにこの国で一番偉い人の悪口は言えませんよ」

「なんだいなんだい小心者だなァ! 君はこの国で最も輝かしい栄光を掴む………かもしれない男なんだぜ? それくらいのこと言ったってお咎めナシナシ! なんせこの俺様がな〜ンにも言われないんだからな! ハッハ、ハハッ!」

 正直に言って、フェイトはこのトサカ人間…もといバーガー男爵が苦手だった。性格の不一致とか、だらしのない態度とか…そういうものを全てひっくるめて、このバーガーという男が大嫌いなのだ。直そうと思って直るものでもなく、ただ上司であるが故に大人しく慣れた愛想を振り撒いているだけ。その程度だった。

 フェイトはビブリオンに助けを求めようとしたが、既にその視界にフェイトは入っていない。手元の何か小難しい古書に興味を全て奪い取られてしまったようで、泣こうが喚こうが叫ぼうがビブリオン侯爵の手助けは得られぬものと思うべきのようだった。

「どうだい兄弟? 最近はアカデミーのクソジジイの後釜探しで駆け回ってたみたいだが、その件は片付いたのかい?」

「ええ、はい。僕の友人にパンツァーという女の子がいるんですが、彼女がアルメッド氏の孫に当たる子で…それで、技術的には問題ないと判断されたので」

「ほう。っつーことはレパイルの旦那の娘サンかい?」

「そうですね、ドルネット家の血を色濃く受け継いだ将来有望なお嬢さんですよ。ちなみに今日が初授業でした」

 それを聞いて僅かに口元を歪ませるバーガー。フェイトは予感に急かされるままに釘を刺しておくことにした。

「ちなみに、まだ10歳です」

「……え、あ、そう? 残念だなァ…レパイルの旦那の奥さんは、そりゃーもーたいそう美人だっただろ、だから相当なかわいい技術士が出てきたのかと思ったんだがね」

「いえいえ、パンツァーはもう十分かわいいですよ?」

「ほっほう、それじゃあ10年後が楽しみになってきたな……今からでもレパイルの旦那に恩を売っておくか」

 なにやら不穏な発言があったような気がしたが、フェイトは聞かなかったことにした。そのときが来たら自分が守ればよいだけである。

「ところで、今日は何があるんだ? 何か聞いてるかい、兄弟?」

「…いえ、ぜんぜん。僕もさきほどロゼッタから聞かされたばかりで」

 ふうむ、と腕を組む仕草をする。しかしあまり深いことは考えていないらしく、ただ単にポーズをするだけで終わってしまうことが多々である。

「ま、お姫様の気まぐれには慣れてるからな」

「そうですね、僕達はそのためにいるようなものですし」

 フェイトが自嘲しておどけるように言うと、バーガーはチッチッチッ、と指を振って制した。

「こんなところで満足してちゃダメだぜェ? 唯一騎士のフェイト君がお姫様のお守り…とは、全くもってナンセンスだ。職場が間違っているッ!」

「…そうは言っても、平和ならそれに越したことはないですし」

「……その通りだ」

 古書に目を向けていたはずのビブリオンが相槌を打ったので、フェイトとバーガーは視線をビブリオンの方にやった。

「だが…バーガーの言い分も正しい。しかしそれはフェイトより先に言うべき人物がいるだろう」

「あー!! ダメダメ! あんな奴、話題にしないでくれ…虫唾が走るぜ! ……まァ確かに? 確かにあいつは最もサボルドーネにいるべき人間じゃァないがな」

「あんな奴…って、もしかしてロウ公爵のことですか?」

 フェイトが名を口にすると、バーガーはブルブルっと体を震わせ、肩を抱くような真似をして見せた。

「あンの野郎、俺様がなーんにもしてないのに会うたび会うたび小言を言ってくるんだぜ? 『町娘には手を出していないか?』とか『毎日服は洗濯しているのか』とかよー!! いい加減にこっちも怒りたくなってくるぜ!」

「バーガーさん、今日はホントなら誰とデートに行くはずだったんでしたっけ?」

「そりゃーモチロン、城下の酒場の看板娘、シェリーと…………ワオ!」

 ビブリオンはバーガーの話を聞いているだけでどこか体の調子を悪くしたようだ。先ほどから額を抱えたままピクリとも動かない。

「僕達サボルドーネはただでさえ人の目を引きます。あんまり目立つ行為はしないように、っていうのが決められた規則の一つじゃなかったでしたっけ?」

「おいおい…お前までアイツみたいなこと言い出すのか? 勘弁してくれって。デートでもしなきゃ我が家の血は俺で絶たれちまうよ!」

「…我が国では、一夫多妻は認められてませんよ?」

 おっと、こりゃ口が過ぎたかね、とバーガーはおどけてみせる。フェイトも責めている訳ではないので、必要以上に文句を言うことはない。

 だがフェイトは口を閉じたものの、それに代わってフェイトの背後から呪いでもかけるようにおどろおどろしい声が聞こえてくる。

「フェイト君〜? 落とすときはとことんまで落とさないと…こいつは反省するような奴じゃないんだから」

「うわぁッ!? お、驚かさないでくださいよ、ロゼッタ…」

 まるで魔術か何かでも使ったかのように、音もなく現れた妙齢の女性は、長髪を揺らしてフェイトの鼻先をくすぐる。フェイトといくつかしか年齢は変わらないが、その色香はたかだか十数年を重ねただけで生まれてくるものだとはにわかには信じがたい。

「おやおや、まあ、これはこれは…ええ、その、なんだ、ご機嫌麗しゅう…?」

「ありがとう。挨拶をする前にその失礼なトサカを取り外していただけると嬉しいわ」

「お、おっと…無茶を言うぜお嬢さん…ハ、ハッハ、ハハハ…ハ」

「あら、汗をかいているわ? このホール、空調が効いていないのが傷よね」

 バーガーはロゼッタのように少々色香が勝りすぎた強気な女性は苦手らしく、そしてそのことをロゼッタも理解しているようなのだった。だから自然とこの二人が揃うと、バーガーは不自然なほどに縮こまり、ロゼッタは調子をつかせてますますバーガーを小さくすることに貢献する。フェイトはこの光景がたまらなく面白くて、密かに今日もこの役者が揃うのを楽しみにしていたのだった。

「ハ、ハハ…そ、そうだフェイト君さっきの話の続きをしようか」

「え、さ、さっきの…って、」

「ほ、ほほほほら、僕らの…サボルドーネのすンばらしい規則事のことだよ! ハハッ、やはりね、僕が思うに高貴なる魂を持つ僕らは…」

 フェイトの言葉に聞く耳を持たず、声を切らしたらそれで終わりだとまで思っていそうなバーガーには何か鬼気迫るものがあった。

「そうさ、高貴なる魂を持つ僕らには高貴なる物が相応しいとは思わないかい? か、か、かと言って贅沢を言えば良いというわけじゃない。大事なのは…」

 ビブリオンは抱えていた頭を解放し、今度はフェイトに同情のまなざしを送っている。事の発端であるロゼットといえば、我関せずと言った様子で二人を見つめている。と、言うよりは奇策が叶って満足といった表情だ。

「だいたい僕は魚が好きでさ、やはりあの旨みに勝るものはないよ。近頃じゃ若いものは肉を食え肉を食えという風潮があるが、僕はあんなものには断固抗議するね、なぜなら…」

「わ、わかりました、わかりましたから…」

「いいや!! わかってないよフェイト君、君は何もわかっていない。そもそもこの世に悪というものが存在し続ける限り、絶対に…」

 もはや支離滅裂どころの話ではない。2秒前と2秒後での話が5%も一致しない。さすがのフェイトもそろそろ愛想笑いが保てなくなりつつある。バーガーの目の色も黄色を通り越して黄土色にまでなっているし…混乱しているのか、それとも現実からただ逃げているだけなのか。

 こうなったバーガーをとめることができるのは唯一人、サボルドーネのトップに君臨する…彼しかいない。

「だがしかし彼は僕に言ったわけだよ、そんなに空を飛びたいのなら羽をつけれ…」

「こら、やめないか。ここは城内だぞ?」

 ガツン、と、小気味の良い音が一つ。相当なパワー、そしてスピードで拳が頭骨を弾いた音だ。

「あがっ…、ロ…ロウ公爵……!」

 やはりロゼッタと同じく唐突に現れた男は、一撃でバーガーを黙らせ、そして睨みつける。

 ……これが。この、厳しく険しい表情を覗かせたスマートな男が、この国で最も尊敬を受ける人間。王直属の護衛部隊、サボルドーネリーダー。泣く子も惚れるロウ公爵である。

「…それに、我らがお姫様の御前でもある」

 ロウがちら、と壇上を見やる。それに続いて団欒モードだった4人の男女は表情を険しくしてその方向に体を向けた。それが意味することは一つだけだった。サボルドーネという部隊が守るべき存在が、忠誠を尽くすべき存在が、そこにいるということの意味である。それを理解する前に体は勝手に最敬礼のポーズを取っている。

 膝を折り、目線の位置を少しでも下に。敵意を向けないことの証に利き腕は剣より最も遠い肩に。アゴを引いて頭を下げ、これ以上ない忠誠を誓う。

「いつもいつも、よく飽きないね、君たちゃあ…」

 そして、そんな厳格なこの場の空気には似つかわしくない、高い声。まだ、幼い。

「まー、まぁ、そんなにカタくならないでよ。ほら、ビュルゲル男爵を見習ってさ、こんなにもゆったりくつろぎモードじゃない?」

 見ると、ただ唯一バーガーだけが救いが現れたとばかりに表情を弛緩させ、気まで緩ませている。あろうことか敬礼のポージングを崩し、まさに壇上の姫が言うとおりゆったりくつろぎモードなのである。

「姫様、僕は、"ビュルゲル"じゃなくて"バーガー"です」

「おっと、ついうっかり。綴りが同じだからさ、わたしに言わせればおんなじ様なものだしね」

 はっはっは、と壇上の美姫が笑うと、バーガーも遠慮せずに大口を開けて笑う。いつもながらにフェイトはこの図太さを羨ましく思い、そして恐ろしく感じる。

「ハッッッ! バー」

 ぷちん、と何かが耐え切れずに切れるような音がした。しかしそれは、壇上の姫がキレる音。

「ッカ!! なーにがバーガーだこの、モヒカン赤トサカ野郎ッ!! てめェがバーガーだろうがビュルゲルだろうが唐変木だろうがこっちゃあどうだっていいんだよそんなこと!! 姫には常に敬意を示せこの無知で無学で無学習な鳥アタマッ!! ハゲ! アホ! クソマヌケ! 発情しか脳のないブタ野郎がッ!! 今すぐ上半身裸アーンドッ、オレサマ愛用のドロワーズを着て、そのクソ汚ェ面に鉄火面で城下を72周走って来やがれッ!」

 ぷしゅううう、と蒸気が逃げる。壇上のお姫様の熱伝導率がいいおかげで、すぐに熱は冷める。

「はぁ…ッ…はぁぁぁ…はぁァ…ふぅ……」

「吐き出しました? お姫様」

 ロゼッタが微笑んで問いかける。その問に、軽く十数秒。湯気があたりに霧散していくのを見届け、大きく息をついたお姫様が口を開く。

「もう十分かなー」

 てへへ、と年相応に実に可愛らしく。それは見る者を惹き付けてやまず、その暖かさからは天使の慈愛を感じることができる。

 だがしかし…先ほどの、悪魔が、瞼の裏から離れない。フェイトは……いつになっても、この異常事態には慣れることが出来なかった。

「それはそうと、んん」

 パチン、と姫の指が鳴らされる。

 それぞれの、法衣や着衣がサッと音を鳴らした。姫が合図をすれば、それが敬礼を解く合図になっているのだ。

 ……姫。先述したとおり、今やこの国に王はいない。王家の血を告ぐ男子が一人も残っていないためだ。唯一残った生き残りが、フェイトたちの目前に存在する姫。名をフィリアと言い、色素の薄い長髪と、白く透き通る肌、作り物かと思わせるほどに美しい瞳。非の打ち様がないほど、それは美少女と…………美少女と、呼ぶに相応しい………。

「くッ…!」

 フェイトは自己の中でフィリアを美少女と呼ぶに至れなかった。

 なぜなら、

「姫様、いくら我々の前だからと言って、そのようなお姿では引き締まる身も気が緩むというものですが」

 このサボルドーネの中でフェイトと競って一、二の人格者であるロウ公爵は忠言を試みた。

「……だって暑いんだもん」

 フィリアは美少女と呼ぶには相応しくない、薄手の下着姿だった。それも見えてはいけない箇所まで見えてしまう、柔な造りのものだ。多感な年頃の男子には理解不能な胸に当てる布地とか、男が使うものとは造りが違うらしい股当ての布地とか、そういったものさえ着用していない恐れのあるフィリア姫を前に、フェイトは照れや恥ずかしさなどというものではなく、ただただ呆れと呆れと呆れを感じていた。

「姫様の白くお美しい柔肌を前にして、そこの子供が顔を赤く染めていますので」

「ンなッ!?」

 この中で最も常識と正義感に溢れ、なおかつ真面目なことだけが取り得のような男がフェイトに不意打ちを放つ。それを受けてフェイトがなんと返そうかと口を開き言葉を探していると、

「そう? 確かに狼の前に愛らしい子羊を放り投げるのは賢いこととはいえないかな?」

 子羊の着ぐるみをかぶった狼に『狼』と張り紙を貼り付けられた子羊が食われる。

 しかしこんなときに取る行動はいつも一つなのだ。

「……からかわれるために呼ばれたんだったら、僕は帰りますけど」

「おおっと、まぁ気を悪くしないでくれ。ほんの冗談じゃないか?」

 フェイトが少しだけ機嫌を損ねてみる……ようなフリをするだけなのだが、それだけでロウはフォローに回るし、気が向けばロゼッタもフェイトをからかう人間をたしなめることがある。

 この辺りは既に熟練された一つの流れのようなものだ。

「そうそう。わたしの艶かしい姿を見れて嬉しいのはホントなんだからさ?」

「自ら言いますか、そういうことを」

 フェイトはやれやれとため息をついて呆れてみた。

 フィリア…という少女は、フェイトとさほど年は変わらない。むしろフェイトよりもやや低いくらいで、まだ国を背負って立つには未熟過ぎる器だ。

 最初はロウという男だった。元々国王直属の暗殺部隊…サボルドーネという少数精鋭の小隊の隊長だったロウはまだ幼かったフィリアを後方から、そして矢面に立ってバックアップした。

 それからロウと同じく暗殺部隊サボルドーネの幹部だったビブリオンがロウに続いてフィリアの補佐に入り、博学で教員の資格も持っていたビブリオンはフィリアの教育係を自ら進み志願した。

 そして経済学や帝王学を学ぶための教師役には軍部からリグという貴族生まれの青年が呼ばれ、呪令術には同じくアカデミーの呪令術教師陣からロゼッタという新任教師が呼ばれた。バーガーは気付けばいつの間にかいたが、特にフィリアに何か教えているわけではなさそうだ。

 そうしてフィリアは『新生サボルドーネ』五人衆の中で僅かに揉まれ、多分に甘やかされ、十分に褒め称えられて育ってきたわけである。

「お姫様…僕って、何のためにいるんでしたっけ?」

「そりゃ、……わたしのパシり?」

 フェイトがフィリアの遊び相手……つまり『友達』としてサボルドーネに招待されたのはちょうどその頃である。

 友達…兼護衛。通常城内では守衛や戦闘訓練時にのみ許されている帯剣を、フェイトは常時義務付けられているのである。

「そうでした、そうでしたね…僕はパシりでしたね……」

 しかしこの強国に責め入るような身の程を知らぬ国は今まで出てくることはなかったし、フィリア自身も護衛をつけるほど危険な目にも会ったことがなかった。なのでフェイトは必然的にフィリアの言うことを聞くだけの便利屋になっていたのだ。

「何か問題でもあるの?」

「……いえ、特には」

 問題ないですよ、とフェイトがにこり。フィリアも『そう?』と小首を傾げながらにこり。フェイトは乾いた笑いを、フィリアは可愛らしい微笑を。

 思えば、フェイトが初めて姫に謁見したときとは随分と雰囲気が変わっていた。今でこそ突然怒り出したりかと思えばにこにこ笑ってみたり、人をからかってみたり。そんな人間らしい行動をする。しかしフェイトが感じた過去の印象は、大人しくて人見知りをし、なかなか他人と打ち解けることの出来ない子…というものであった。

 フェイトはパシりパシりと言われつつも、自分が役に立ったのかなと思いながら少しだけ鼻を高くした。

「コホン」

 と、フィリアが小さくせきをする。それまでの穏やかになっていたムードが散り散りに消え、皆がフィリアに注目する。

「………それで、リグリグ君は?」

 ロウとロゼッタを除く普通の感覚を持つ者たちが背後に悪寒を感じた。それは本能からのお告げというべきか、なんというべきか、今まで何度かあったことがトラウマとなって何らかの作用を呼び起こすことに…。要するにお姫様はご機嫌斜めの様子なのである。

「無断欠席です」

 ロゼッタが柔らかい笑みをしながら口を開く。背筋に何か長く固いものが通ってしまって、動くことが困難になっているフェイト含む三人は諦めの吐息をつく。

「そうか、リグリグ君はまたお休みか……うん、まぁ体は大事にしないといけないしね。ロウ公爵、今度リグリグ君に会ったら『お大事に』と伝えておいてね」

 薄く涼しい笑いで飾る姫の言葉には、どこか赤い薔薇のような棘があった。痛みを恐れて近寄ることは出来ない…それはたとえ蝶であったとしても感じ取ることは可能である。フェイトたちは蝶より賢いので、今この状態にあるフィリアに口を挟むような真似はしない。自ら機嫌を直していつものように和やかに語り出してくれるのを待つほかにないのだ。

 フィリアの言っているリグリグ君とは、まさにリグという名の青年のことだ。リグ・リッガー・リグリソル。権力と金と自由が大好きで、自分より地位の高いものには媚び諂い、地位の低いものにはツバを吐きかけその上から革靴で踏む、という実にわかり易い思考回路をした人物である。

 フェイト含む男女六人の集まりがある。それがサボルドーネと呼ばれる護衛部隊だ。元は暗殺部隊だった名だが、実質的な一時解散とメンバーの入れ替えによって行動趣旨が変化したのだ。そのメンバーはフィリアに術や勉学を教えるためだけに選ばれたものなのではなく、武術や呪令術に長け、知性があり高潔であり、そして絶対の忠誠を誓う者のみから構成される。

 そのトップ、公爵の呼称を持ちこの国で最も剣の腕があるとされる人物がロウ。次に権限を持つのが侯爵の呼称を持つ呪令術の専門家であるビブリオン。そしてそれに続くのが三位の伯爵の名を持つリグ、四位の子爵であるロゼッタ、五位の男爵であるビュルゲル……失礼、バーガーである。当然トップなどと言ってもメンバーはこの人数に加えて末端のフェイトがいるだけなのだが…。

「お姫様の機嫌が直ってくれないと、話が先に進まないわ」

「………まあ、いつものことだ」

「いつもいつもこうでは困るのだ。誰かリグに忠告した奴はなかったのか?」

「バカ言うなよオッサン…あいつが大人しく人の忠告に従うような奴か?」

「む、バーガーのクセに生意気な…。年上には敬意を示せ、敬意を。おまけに階級も上なんだぞ」

「ケッ…おまけみたいな階級じゃ頭を垂れる気にもなれないネ…ハッハ、ハハ!」

「バーガー。確かにロウ公爵の階級はお飾りみたいなものだけど、それを馬鹿にして笑うのはよくないと思うわ」

「おい、ロゼッタ…あんまりフォローになっていないような気がするんだが…」

「バカね。あたしがいったいどうしてあなたをフォローしなくちゃいけないの?」

「……痴話げんかはよそでやれ」

「ハッハ、あんたもこうなるとただのふやけたオッサンだなァ!」

 例によって……フェイトの見ている前であまり美しくない会話が繰り広げられていた。ロウ、ビブリオン、ロゼッタ、バーガー。4人を止めるものがいないので、話はどんどんと熱を帯びてヒートアップしていくのである。

 だから、ここで、いつもいつもの例の如く、フェイトが止めるしかないのだ。

「はい、はい皆さんストップですよ。お姫様に僕らの喧嘩が聞こえたら機嫌が更に悪い方向へ悪化するかもしれませんからね?」

 しかしその当の本人であるフィリアはリグリグリグリグと呟きながら頭頂部より赤黒い煙を放出している最中なので、その心配はなさそうではあるのだが。

「むッ…確かにその通りだな」

「……平和ゆえか、最近たるんでいるな」

「仕方ないわね…。なにせこんな男が王族最後の生き残りの護衛に就くくらいなんだから」

「お、おおっと、冗談キツいぜマダム…。くそッ、この決着はいずれつけてやるぜ、ロウ!」

 …とはいえ、サボルドーネ幹部四人衆にはとてもよく効いたようであるが…。

「しかしそうは言っても…お姫様の方がいつもこうだと、何か対抗策を打たないといけないのかもしれないわね」

「そう言うが、あの本物のバカの方は直りようがない…」

「……リグ、昔は誰よりも姫の機嫌を取ることに忙しく動き回っていたのだがな」

 サボルドーネの中でも落ち着いた思考を持つ三人が頭を抱えた。

「ハハ、まぁあいつは姫様が取り繕った言葉の一つ二つでどうとも動かないことに気付いてアホらしくなったんだろうヨ」

「…まぁ、そんなところですかね」

 そして最も落ち着きのない男の嘲笑交じりのセリフにフェイトは同意して見せた。

「ようし、リグ君には後々公爵さんの方からでもお伝えしといてもらおうかな」

「了解」

 もわもわと赤黒い煙が霧散していく。どうやらフィリアの不機嫌さも収まったようだ。

「それでね、今日集まってもらったのは他でもないんだけど……」

 フェイトのやや堅苦しい鎧がカチャリと音を立てる。緊張の表れだ。

 今まで幾度となくフィリアによる召集はあった。その都度その都度訳のわからない、その上馬鹿らしくて多大なる苦労を背負うことを実施させられてきた。巨大な動物を場内に放って誰が最も早く手綱をつけて乗りこなすことが出来るようになるか競うだとか…国軍の殆どを集めて大々的避難訓練をやらされたり…サボルドーネ総出でラブロマンスの演劇をさせられて国民に大きな支持を得たり……と、数え上げればきりがない。

 要するに大事な用ではないのだ。言うてみればただの暇潰し…そのようなことに付き合わされる方のことも考えて欲しいが、のんびり大事に甘やかされて育てられたフィリアの辞書に配慮という文字は見当たらない。

 ……が、今日の召集は一味違っていた。

「……実はね、ビブさんには相談に乗ってもらったんだけど…どうやらわたしは結婚することになりそうなんだよね」

 フィリアは頭を指でぽりぽりと掻きながら困った困ったとでも言う風に呟いた。

「え、そ、そうなん…」

「相手は誰なのですかッ!? い、い、い、いったい相手は…相手はァァ! もしやその気になられているのではありませんかッ!?」

 轟音。発生主はロウである。

「ちょっとロウさん…僕のセリフに入ってこないでくださいよ……」

「そ、そ、そんなことを言っている場合ではなかろうにッ!!」

 文字通り目の色を変える。辺りの気温が少しだけ上がったようだ。

「今朝方某国の使者さんがいらしてね、そこのバカ王子との縁談っつー訳なんですよ」

 フン、といかにも機嫌を悪くしながらフィリアが答える。

「急な話ね。今までお姫様にそういうお話が来たことは一度もなかったのに」

「………最近我が国は他国を攻めていない。国力の弱小と戦闘意欲の喪失を見て取られ、今が好機と対等の立場…それ以上に立たんとしている国はいくつか存在するかもしれん」

「ハッハ、今日の侯爵様は饒舌でいらっしゃる…」

「そうなんだよ、それなんだよ。わたしさー、父様みたいに悪人っぽいことしたくないし…平和なら戦争とかしたくないじゃん? でも下手したらウチの国が攻められちゃうってことでしょ、どうしたらいいのかな?」

 腕組をしながらフィリアは皆に問う。その表情からは婚約への嫌悪は見て取れない。フィリアは婚約に対する抵抗は感じていないのだろうか、フェイトは少しだけそんなことを心の中で考えて見た。

「簡単なことです、その婚姻を求めてきた国をぶっ潰し…二度と他の国も不埒な考えを起こさぬように釘を刺すのですッ!!」

 ロウが美しく整われた表情を醜悪に歪ませながら意気込んだ。

「公爵〜それじゃダメだろ! バカの一つ覚えに戦争なんかしたらまた死ななくてもいい人が死んじゃうんだぞ。それってやっぱり賢くないと思うんだよ」

「……立派になられたものだ」

「ハッハ、だが、まァ国の主がそんな甘っちょろいようじゃこの世の中は生きていけないと思うがな……」

 バーガーの軽い失言に一瞬だけ辺りが静かになったが、当の本人がハハと皮肉ぶり笑って見せると何事もなかったかのように話は進み始める。

「この話を知っているのはどれほど?」

「ここにいるみんな。それだけだよ」

「そういうことならば、やはり我らサボルドーネが暗殺部隊として働くのが一番の策…!!」

「……ロウ、いい加減その思考から戻ってきたまえ」

 暴走するロウの肩をビブリオンがポンと叩く。それで少しだけではあるがロウも落ち着いたようだ。

「フェイト、キミはどう思う?」

 フィリアが唐突に黙り込んでいたフェイトに訊ねた。

「…え、僕ですか?」

「キミの意見が聞きたい。率直に…どう?」

「………僕はパシりですからね、姫様の思ったようにすればいいと思います。そうしたら僕はそれについていくだけですよ」

「……そう」

 フィリアは少しだけ思案するかのようにみせ、顔を伏せた。

「じゃあそうする」

 そして小さく呟いた。

「お姫様は優しい心をお持ちなのね。この国がもう十数年も戦争を吹っかけていないなんていうのは殆ど奇跡みたいなものだっていうのに」

「故に…、我らが守らなくてはならないのだ」

 ロゼッタの独り言にロウが返す。それから少しの間だけ巨大なホールから人の言葉が消えることになった。

 

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